こんにちは😊
リリアです
最高トリプル開運日♪ 私の吉方♪ 北へ✨✨
の続きです
前回のブログはこちらです
前回は松陰神社周辺でしたが
今回は世界遺産 萩城下町
萩城跡・旧上級武家地・旧町人地です
萩城跡(指月公園)
萩城(城の歴史)
関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封されました。輝元は慶長9年(1604)日本海に面した長門国の萩に築城を開始しました。萩城は標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城と呼ばれます。城郭の構造は指月山麓の平城の部分と山頂の山城の部分とを合わせた平山城です。明治7年(1874)に天守などは解体されましたが、庭園や石垣と堀の一部が往時の姿をとどめています。
『萩城跡』パンフレットより
毛利輝元公蔵
毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸国吉田群山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父陵元の死去にともない家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。
織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8か国112万石を領有する大大名に成長し、 天正17年(1589)広島に居城を築いた。豊臣政権下では五大老のひとりとなり権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2か国36万9千石に削封された。慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永2年(1925)73才で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。
平成16年11月 萩 市
狛犬
狛犬の下四隅
人が支えています
重そう
拝殿
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。
城下町周辺マップ
金毘羅社の拝殿には、朱色にぬられた大きく迫力ある「天狗の面」がかけてあり、幼き日の高杉晋作は、家人にここへ連れて来られてこの天狗の面を見せられ、物おそれしないようにしつけられたといわれています。
また、嘉永4年(1851)頃から約1年半の間、後に初代総理大臣となる当時11歳の伊藤博文あずかり、住職が雑用をさせるかたわら読書や習字を教えました。
境内には、幼少期の高杉晋作や伊藤博文らが遊んだといわれる木馬(神馬)が残っています。
山口県観光サイトおいでませ山口へより
円政寺でいただいたパンフレットより
石燈籠
名探偵コナン(第519話)で紹介されたそうです
評価は三億円
金毘羅社社殿・十二支の彫刻がめぐらしてある
(左上:亥)
円政寺は説明書きがあちこちにあり
住職さんも親切に色々説明して
いただけるのですが
時間押しちゃう
江戸屋横町 青木周弼旧宅
時間がなくなってしまって
写真だけです
木戸孝允旧宅
写真もなし
城下町周辺の一般の家の外壁
とても素敵
景観を損なわないように
どの道もとても綺麗です
北の総門
総門は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける門である。
北の総門・中の総門・平安古の総門の3か所があり、あわせてあ「大手三ツの門」と呼ばれた。北の総門は、萩城下三の丸(堀内)の東側にあたり、中の総門の北の位置していることからこの名がある。
それぞれ門の側には番所(見張り小屋)が置かれ、人や荷物の出入りを監視していた。夜間、暮れの六ツ時(日の入り)から明けの六ツ時(日の出)の間は閉められ、手形(通行許可書)を持つものだけが通行を許された。これらの総門は、明治4年(1871)に解除された。
現在の建物は、平成16年(2004)、萩開府400年を記念して復元されたものである。
萩 市
萩城のすぐ近くにある
菊ヶ浜海水浴場
小学生の頃家族で何度か泳ぎにきました
もう日が沈んできちゃいました
一日では回りきれないですね
次回は大照院と東光寺
萩藩主毛利家の菩提寺です
最後までお読みいただきありがとうございます😊
皆様にとって今日も素敵な一日であります様に