奏鳴する向こうに。

奏鳴する向こうに。

好きなものを書いていく覚書

アオヒゲがオトヒメに託したアオミへの手紙は、9枚の便箋を横書きに使って表裏に鉛筆で書かれていた。急いで書かれた様子がうかがわれるが、おそらく長年繰り返し脳裏に映し出していた景色なのであろう、書き直しもなく一気に書き下されていた。
〈…先ほどお呼びがかかりまして、規定通り整理をつける時間を3時間ほど賜りました。とはいえ私には遺書を残すべき家族もなく、無念があるとすればこれまで折に触れアオミ君に聞いてもらっていたマサドの物語を、もはや直接聞いてもらう時間がないことです。ゆえに私の残り時間を使って、遺書代わりにそれを書けるところまで書き、オトヒメ氏に預けることに致しました。アオミ君の貴重な時間をつまらぬ物語で削ることになるのが心苦しいですが、私自身何らかの決着を、人生の最後につけたいと思っての独白ですので、お読み下されば幸いですし、破棄して下さっても全く構わないのです。
おそらく推敲する時間もなく、断片的にならざるを得ないでしょうが、それはこれまで直接話していた時と本質的に全く変わらないということでもあります。
そういういわば即興的な語りを、今回ばかりは文字として書き連ねるわけですが、これまで通り目の前に、深く感じ取ってくれるアオミ君のような人物を想定しながら、最期の時間を過ごせる幸せを、あらかじめ先にお伝えしておきます。

あの時「こびとはどこに住んでいるか」と何度も自分に問いかけてきた、少なくともそんな気がした、あの煙突の部屋の住人のことをマサドはずっと考えてしまう。1日の終わりには必ずその煙突に来て、なぜか祈願か罪悪か見分けがつかない気持ちで、畏怖した耳を澄ますようになり。

幸い屋根の上の掃除夫の行動などを特段気にする住民もなく。

秋が深まっても昼間にその部屋の煙突から煙があがることはなかったが、その後どんな問いかけも聞こえてこなくなった。マサドは気になった挙句、あれがどんな意味か知りたいからだなどと自分を説得して、その煙突を必要もないほど入念に掃除しながら降りていってみた。今思えば、それはマサドにとって、生まれ直すために母親の狭い産道をさかのぼっていく行為に等しかったかもしれない。あるいはまた、黄泉の国にまだ出逢ってもいない妻を迎えにいき、結局は永遠に失うことになるという、神話めいた運命を、たぐり寄せてしまう行為であったろう。
部屋からの光が近づいてきた時、マサドは自分のしていることが怖くなり、一瞬引き返そうとした。その焦りから靴が片方、もげてしまって、一番下の灰だまりの中にさっさと落ちて行ってしまった。こうなるともう堂々とその靴を取りに行くという理由ができたマサドは、そのまま降りていき、ついに暖炉の灰の中にみすぼらしく、飛翔にしくじった不死鳥のように降り立つこととなった。
そこですぐに靴を探したがなぜか、ない。大汗をかきながら灰をかき混ぜようとすると、部屋の中から劇の台詞練習をしているような声。
「そう、あなたが灰かぶり王子ね?
…壁から現れる、その御方は、私の片割れ。
…あなたが靴を落としたのは、私の原初の記憶の中にあるその言葉が成就するためでした。」

こけしのような黒髪が丸顔を縁取る、白い舶来の今でいうネグリジェを着ていたその女子は、その手や衣装が汚れるのも構わずマサドの薄汚い靴を両手に抱えて持ち来たり、凛々しい騎士のような所作で膝をつき、「あれ?」などとつぶやきつつおおぼね折って履かせた後、勢いよく立ち上がり高らかに宣言した、
「ぴったりである、王子が見つかった」

マサドは当時シンデレラの話も知らなかったから、そこで演じられている劇の意味も、独創的に書き換えられていた筋も何も分からず、愚かしく突っ立っていた。
彼女がおそらく1人で何役もこなしているらしい劇に、ぶざまに飛び入りで登場した形のマサドは、ほかにどうしようもなく額の汗を手の甲でぬぐっては我知らず顔をますます黒く塗りつぶしていった。
困っているマサドを憐れに思ったのであろう、彼女は劇を離れて素に戻った感じでか細く言った
「…こんにちは」

劇ではない、となると途端にもじもじとした引っ込み思案に戻ってしまう質(たち)だった彼女は、この時ばかりはさらに思い切ったふうに「はじめまして」と言って、自分から名乗ってくれた。その美しい本名は今もずっと大切にマサドの中にあるが、40年後の今なおマサドは彼女を心の奥でマイアと呼ぶ。後に彼女が書いた詩「舞い上がる鳥」の最初の3文字だ。

実際マイアは、その知性の輝きで本当はどこまでも飛んでいけるはずの鳥だったが、マサドと出逢った当時彼女は、この真っ白い部屋で飼い殺されている白い文鳥、マサドと同じ14歳になる「籠の鳥」であった。そして本人はそれを不幸とも思っていなかった。なぜなら籠の外を飛べるということを知らされていなかったのだから。

一見幼く見えるが、どうかすると凛とした落ち着きも感じさせ、あたかも小さくも大きくもなれるようなマイア。
マサドはマイアから次々とさえずり出される歌、編み出される言葉に、深々ととらえられていった。
「論理なんて、ちょっとlonelyじゃない?寂しいって意味で。…あ、ここ笑うところよ。私ね、誰にでも分かるように、自分の心をなるべく正確に、論理的に話したつもりでも、結局ね、分かってくれる気がない人たちには誰にも分かってもらえっこないんだって気付いた。だから論理はlonely。」

話し相手を見つけたと信じたらしいマイアの中から、言葉はこんこんと湧き出した。
「次にね、同じ論理的ではあっても自分の言葉をね自分の心とは反対にしてみたらね、他の人は結構喜ぶんだって気付いた。そしてそのうち相手が求めてる私の役柄がね、すぐ分かるようになっちゃった。…あ、でもね、結局それじゃ私の心が拗ねちゃうでしょ。人の都合や好みを喜ばせてばかりじゃ、結局心は、満たされそうで実はlonelyなままだから。だから私、考えた、自分の心を仮装させて舞踏会に送り出すつもりで言葉を使えばどうかな、と。つまり自分でも何考えてるか分からない感じで、美しいと思う言葉だけを糸にして思考を紡ぐの。そしたらね、もちろん忙しくて心が亡くなってる大人は馬鹿にして聴く耳なんかもたないけど、私は、そのlonelyな論理を超えた思考が、凄く支離滅裂でもね、美しいな、って思えた。他の人に理解されたわけじゃなくても、ああ、分かるよ、私、美しくひとと自分を誤魔化せたのね、素敵だったよ、もっと、もっと綺麗に心を汚せる?って言ってみたのよ。自分に。そしたら笑いが込み上げて来ちゃって。理解されるとか、無理解に苦しむとかじゃない、なんだかただ、これでいいんだ、って思える最強の自分を感じた。論理で身を固めて汚れないように気をつけてた時はあんなに生きにくくて弱かったのに。…以来私はね、論理なんかじゃなくそういう支離滅裂が凄く好きで、それを美の基準にしてるの。ああ、この美は、多くのヒトに分かってもらおうなんて絶対思ってないな、なんて素敵、って〉

ところどころよく分からないなりに、マサドは真っ黒い面(つら)をしてその話を凄く面白く、愛おしく、分かる感じがした。
そこでは小春日の柔らかな風が白い部屋の白いカーテンをあえかに揺らしていたからか、マサドは思い切って言った、
「じゃ、こびとはどこに住んでる?っていうのも、その、しりめつれつ?な、きみの美しい言葉だったんだね」
するとマイアはきょとんとして「何それ」と目を輝かせる。少し話してそれが「コギトエルゴスム」のことだと分かって彼女は大笑いした。あまり笑い慣れていない人特有の、破裂するような笑い方だったと思う。
「こびとはどこに住んでるのか?いい、凄くいい。もしそんな問いや呪文がほんとにあったら、凄く綺麗ね。滅裂してて」

マイアによるとそれはデカルトの生涯を劇にしてひとり演じていた時に〈我思うゆえに我あり〉という真理に気付くシーンの台詞だそうで、聞かれていたことを恥ずかしそうに顔を両手で覆ってますます笑うもんだからいつの間にかマサドも笑っていた。
そしてその意味を知るためにマサドがここへ来たと知ったマイアは、自分を何とか整えながら
「じゃその意味が分かったからもう帰っちゃう?」
と、笑いすぎて潤む目でこちらを見つめた。思わず指を入れてみたくなるほど深いえくぼが両頬に浮かび。
マサドは少しどきまぎしつつ
「コギトエルゴスム、我思う、ゆえに我あり?…意味は、まだよく分からないな。自分が在る、と言えるのは、仕事終えた時とか、ご飯食べてる時だから…ものを思ってる自分、ってやつを感じてるだけじゃほんとにこの自分が在るのか、それとも夢見てるだけか、分かりゃしない」

マイアはそれを聞いてすっかりツボに嵌ってしまって笑い続けた。
「ほんとにそうね、私も分からなくなって来ちゃったかも。今ここに私が在るのかどうかさえ。でもね、マサドくんのおかげで今は凄く愉しい。」

今もマサドの目には、書棚にたくさんの本がある白い部屋の真ん中で、愉しげに脈動しているマイアの肉体の線が指先でなぞれるほどはっきりと浮かぶ。そしてその時ネグリジェからところどころわずかにのぞいていた、思いがけないほど引き締まった明るい小麦色の肉に、どういうわけかあった色とりどりの打ち身の無残な傷跡。マサドは見なかったことにしたが、その傷跡と、それとなじまぬ美しい笑顔が、今も海馬の奥にある。
そして思うのだ、今ならちゃんとぼくなりに「こびとえるごすむ」が分かるよマイア。滅びを待つのみの大人となってしまったマサドならこういう真理にたどり着いてるだろう、
「われマイアを思う、ゆえにマイアはいつまでもわれにあり。
そしてなおも、われ舞い上がる鳥を架空す、ゆえに一切はここにあり」

きみはこれを聞いてまたいつもの口癖、メツレツしててとても綺麗ねを、言ってくれるだろうか。

…マイアとマサドはまたここで会う約束をした。土日以外なら、と。いつもは夕方さっさと帰っていくお手伝いさんがいるだけだが、週末は父が来るという。マイアは悲哀と苦しみと悦びの混濁した表情で、父親のことをお父さんでもパパでもなく正確に冷たく「チチ」と呼ぶのが常だった。
ある冬の木曜日、その日が祝日だと気づかなかった2人が、その日も部屋で古今の哲学書や神話や伝説について論じあっていると、庭に車が入ってきた。マイアが青ざめて「チチ」といい、マサドは煙突から外に出るべくまずは暖炉に身を隠した。…〉

アオミはここまで読んで息が苦しくなり手紙を伏せた。
キカもなぜか落ち着かなく籠の中を動き回っているが今日はチチとも鳴かない。

アオミは自作の短歌を書きためているノートを開いた。
子どもの頃、父親がいない寂しさを少しでも埋めてやろうとしてだったのか、母が小鳥をもらってきたことがあった。深い翡翠色の小鳥。その世話をすることがアオミに任された。ある夜、今日はまだエサをあげていないことに気付いたが、そのまま寝落ちてしまったアオミは、翌朝、小鳥が死んでいるのに気付いた。号泣して裏庭に埋めてやっても涙が止まらず、母親が慰めようとすると
「ぼくが、ぼくがエサをやらなかったから」
と何度も喉からしぼり出すアオミのために母は、つらそうに丸めた背中をして貴重な白い米を研ぎ始めた。…
忘れていたそんな景色を思い出したアオミは生まれて初めて遠い故郷を思った。

〈我が懐郷募りあふげる獄の空に…〉

そこまで記したが下の句が出ない。アオミの心はついマサドとマイアの運命のほうへ再び彷徨い入っていく。
飼い殺しの鳥…いや絶対に守る、もう死なせない…
すると不意に、ここでは得がたい睡魔が、優しい無表情で、今日はついに歌わなかったキカの側に立っているのに気付いた。



(つづく)