アオミが収監されてすでに2年目、いまだ周囲の誰にも「お呼び」のかからない朝に慣れ、罪は彼の身体の奥で密かに息づくのみとなり、自分が死ぬとはどういうことか分からない以上、他人事と同じであった。
気を紛らすためにオトヒメが差し入れてくれる本、短歌の同人誌などを読みあさる毎日が、アオミの目の前をゆっくりと不気味な静けさで過ぎていった。
2週に一度は顔を見せるこの「オトヒメ」なる人物がこの監獄でどういう立場の人なのか、今だにアオミにはよく分からないが、彼が独房を訪ねてきてくれるわずかな時間、勧められた聖書を一緒に少しずつ読み、少しずつ会話を交わす。
オトヒメは、ククやアオヒゲそれぞれとの会話の内容をアオミに伝え、アオミの言葉を他の2人に預かっていく。そういう、不思議な架空の討論会だった。
オトヒメはその名のイメージにふさわしくどんな
時も優しい口調で、紳士である。
「…ククは相変わらず〈黙示録〉を読んでくすくす笑ってるよ。先週は〈その4つの生き物は、それぞれ6つの翼があってその周りも下側も目でいっぱいだった〉という一節が気に入ったらしい。ぼくたちみたいだって言ってね。
…それからアオヒゲはね、イエスがユダを弟子にしたのはやがて裏切ると分かっていたからに違いないって言うんだ。ユダには裏切る使命があったんだとね。もしその裏切りがなければイエスの捕縛も受難もないだろうが、復活もなくなるわけで、イエスの聖性を引き出したのは弱い人間ユダの裏切りと涙だったと主張している。
…アオミ君、今週きみが読んだところで気になった一節は何かあったかな」
「あ、はい、…」
アオミは聖書を丁寧にめくる。
「…ヨハネによる書の第3章にあるイエスとニコデモの会話です。イエスが〈再び生まれなければ、誰も神の王国を見ることはできません〉というと、ニコデモが応える〈自分の母の胎にもう一度入って生まれてくるなどできないではありませんか〉、するとイエスはこう言い直す〈水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることはできない〉、そして続ける、〈霊から生まれたものは霊です。…風はその望む所に吹き、あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのかを知りません。霊から生まれた者も皆そのようです〉そこから、〈人の子を信じる者はみな永遠の命をもつ〉、とつながる」
「その通りです」
「しかし私には、これが支離滅裂に思えるのです。そして、支離滅裂だからこそ、私にはとても、何というか、美しく感じられます。…それに私は、この〈人の子〉というのがイエス自身のことじゃない気がするんです。イエスが〈私のことを信じなさい、信じたら救われる〉と言っているとはどうしても思えないのです。むしろ…ひとがもし肉体として生まれるだけでなく、水と霊から精神的に生まれ直せたら、風のようにどこへでも行ける、そしたら〈人間〉をもう一度信じられる気持ちで永遠に幸せに生きられると…言っているような」
「待って、〈人の子〉というのはイエス自身のこと…だといわれているね」
「そう…聞きましたが、私は聖書のここを読んだ自分の感想を言っているだけです。私には〈人の子〉というのは〈人〉、つまり人間だと思えるのです。それも多分、〈大人が汚していない赤子のような子ども〉のことだと思うのです。
…おれたち汚れた大人は肉体として生まれ直すことはもうできないが、精神的に生まれ直して風のように自由になったら、もう一度、赤ん坊や、どこかには居るかもしれない赤ん坊のような人間を信じられる、そう信じることができたら、〈神の王国〉というおとぎの国で永遠に心安らかに幸せに生きていける…、そういう支離滅裂な夢を語っているだけな気がするのです。ごり押しの信仰や御託宣を語っているわけじゃなくて。でもだからこそ、それをおれは美しい、と感じます。だってあり得ないこと、あり得ない夢は、美しいですから。あり得ること、こうすべき、というようなことは、くだらないです。人間の社会ではほとんどのことが〈あり得ること〉でしょう?それでそれに備えて打算や計算や先回りばかりしなきゃならない。そんなことばかりしてる大人が都合する社会や宗教は醜いに決まってる。でも、あり得ない、支離滅裂な、美しさは?私が見聞きし感じて、私の心が水と霊からもう一度生まれ直せるように感じさせてくれるのは、そういう美しさだけです」
オトヒメは腕組みをしてしばらく考えた後、
「…素晴らしいねアオミ君。…多分世の中の多くの学者や神父はその考えを間違ってるというだろう。でも自分の頭で考えない人の正論より、自分で真剣に考えた何事か、というのは、…ぼくの胸には響いた」
「すみません、宗教はおれには難しくて」
「なんで謝る、そんな必要ない。信者でもそんなに自分で考えてる人は少ないよ多分。…時間が来た。また話させて。…あ、短歌のほうも今月の同人誌読んでみてくれたかな。君もよかったら書いてみないか短歌。長い文章で言い訳したりする必要はない。世界を短く切り取る感じで、…そう、例えば世界をいったん支離滅裂にして切り取り集め、手作業で仮の家を作り、そこに感じた世界や心を封じ込めるんだ。醜い世界が美しくそこから生まれ直せるように。そして君自身の心を、水や霊から生まれ直させる。…そのきっかけになるんじゃないかとぼくは思ってる。短歌というのは。今日の君の話を聞いて、ふとそう感じた。ぼく自身もそういうつもりで書いてみるよ今後は」
アオミの顔に諦めや寂しさに似た静かな笑みが、ふと孵化して巣立った。
数日後。日光浴の時間となり中庭に出されたが時は真冬で曇天。日光浴どころではなく、寒い。しかしどこか遠い壁の向こうからクリスマス前の賑わいが聞こえてくる。
アオミはこの凍てつくメリーゴーラウンドの季節が好きである。自然も遊具も人間も皆凍えている、切ない仲間に思われるから。
なぜかふと公判前の取り調べの時の風景が浮かんだ。罵倒してくるやつの声がずっと脳裏でしていたが、今はもう聞こえない。ただその時、背後の窓から晩夏の陽がアオミの後頭部を照りつけていて、机の上の鉄格子柄の陽だまりに鳥の影が何度もよぎっていた。
「罪因…」
初めにその言葉があった。罪の原因。なんでそんなことをしたのか。かつてそれを問われた時、何も答えることができなかった自分。そしてバサバサと何かを訴えたがっていた鳥の影。
脳裏の森からそういった景色を切り出してきて、ひとつに積み上げてみた。
「うつむく」「獄窓」「鳥の影」
すると世界が小さな支離滅裂となってアオミの掌の中に留まった。
「罪因を問われうつむく獄窓にしきりに鳥の影がよぎりぬ」
頼りないマッチ棒で作られたような、今にも崩れて燃えてしまいそうな家であり、歌であった。変である。おそらく「短歌」として間違っている。しかしアオミ自身の、常に堕ちていくだけだった心の鳥が、その小さな支離滅裂の世界に、束の間の安らいの枝を見い出し、静かに留まったように感じた。
「これでいいのか…」
思わずそう独白したとき、横に腰掛けた男のほうから、静かな深い声がした。
「あの初めまして。アオヒゲと呼ばれているものです。アオミ君ですか」
中庭では差し向かいで5分以上話していると刑務官が近づいてくるため、前方を見たままの独り言が装われていた。
ククやオトヒメからその存在を聞いていた連続少女監禁致死罪のアオヒゲが、向こうから近づいて話しかけてくれたのだった。
悲しげな浅黒い精悍な顔立ち。猟奇的なインテリという感じはなく、食いつなぐためにやむを得ずシカを撃つ人のようである。
「〈人の子〉は人。水と霊から生まれ直して、人をもう一度信じられたら永遠に架空された命を得る…そういう理解で合っていますか?」
アオミは気圧されながらも、それがこの前オトヒメに話した自分の考えだと気付く。
「ええ、あの、その通りです。でもそれは単なるおれの…」
「素晴らしかったです。」
アオヒゲはアオミの凍えた身体をシカの毛皮で覆ってくれるような丁重さで言葉をかぶせて、なおも尋ねる
「支離滅裂なものこそ美しい、そう思われるんですね」
「ええ、でもそれは単なるおれの…」
「素晴らしいです。同感なのです私は。」
刑務官が近づいてきたのでアオヒゲは立ち上がり、少し歩こうとアオミに目配せをした。
アオミを先に歩かせ、少しあとをアオヒゲが歩きながら話し続けた。
「もう何年も前、私は本当の支離滅裂を見たのです。ギュスターヴ モローの〈刺青(いれずみ)のサロメ〉といわれている絵でした。」
凍てつく風が2人の間を手厚く通り過ぎていく。
「預言者ヨハネの首を欲しがるサロメの美しい裸体を、ヴェールのような薄衣が覆っているのですが、その模様が、あたかも純白の裸体に彫り込まれた刺青のように見えるのです。しかしそれは私には刺青というよりは、純白だった魂が内なる欲望の目覚めによって美しく穢れていく、その象徴が萌え出ているように思えてぞっとしたのです。…これがなくてもこの絵は充分美しかったのに、モローは、目覚めてはならないものが目覚める瞬間、支離滅裂ともいえる宿命の地図が身体に浮かびあがったのを描き留めた。…これが〈美しい〉ということか、とその時私は思ったのです。」
アオミはその絵を見たことはなかったが、まざまざと脳裏にその〈宿命の地図〉が浮かび出た女の白い肌を見る思いがした。
かつてこの腕の中にいたひとの肌にもおそらくその刺青の地図は浮かんでいたのに、自分はよく見ようともしなかったのだ。そしてもしかしたら自分自身の裸体にもそれはあったのに。
身体に喰い込むような悔いが、北西からの風の中に潜んでいた。
アオミは歩みを遅らせアオヒゲと並ぶように歩き、話した
「その地図というのは、きっと迷わせるためだけにあるんでしょうね。でも実はこっちが勝手に迷っただけ。ひとの裏切りなんてものはなくて、自分が勝手に覚悟して信じただけ。そうやって堕ちていく者もある。でも堕ちた場所からしか本当に美しいものも、聖なるものも、見えないのかもしれませんね。見ようとすればですが…アオヒゲさんの言葉の理解としてこれは合っていますか?ぼくはそう理解して、…何というか、お考えに打たれました」
そう言いながらアオヒゲを覗き見ると、その彫りの深い顔に、ながく世に見捨てられていたに違いない笑みが、羽化していくところだった。
アオヒゲは覚悟したように、北風が跳ね返る壁の前で立ち止まり、アオミに向き合い、深い年輪のただ中に澄んでいる眼をそそぎ、閉じていた震えるこぶしを開いてアオミの手を握り、急いで伝えた。
「それは私の考えではない。私のほうが君の考えに打たれた」
警笛が鳴った。
(つづく)

