奏鳴する向こうに。

奏鳴する向こうに。

好きなものを書いていく覚書

フーミンとポロック母子が静かに永住してきたというこの楼閣。ここはしかしほんのさっきまで誰もいなかったような砂上のようにも感じられ。
さらには、重い透明と澄んだ濁りが背き合う沈黙の館に感じられたと言おう。そこでわれわれが勃発させた先ほどの乱は、漆黒の部屋のベッドの一瞬の軋みと、われわれの驚愕とを静かな2つの焦点にして、焼き焦げた楕円状の偽りの和解に達し、急激に一時休止した。
われわれ3人は再び席につく。

私は次の画集をひろげる。難波田史男画集、その「星空の下に」のページ。
私は懐中から静かに紙片を取り出し、
「さてフーミン、これが私のこの絵に関する調査報告です。よければポロックにも、神々にさえも聞こえるようにこれを大声で読んで下さることは可能ですか?ひっかかっても、噛んでも言い直しても構いません。大事なのはゆっくり大声であることです」

フーミンは一度黙読するように目を走らせたのち、私の調査報告を読み始めた。
「実在しない星空の下に、」

それは意外なほど指示に忠実な、楼閣に響き渡る声だった。
切れ目(句読点)で青夜が静かに遠く澄んだやまびこのように唇の上で復唱する
「実在しない星空の下に」

「いまだ設計途上で実在しない青い目の深海魚が、
実在しない青の海の底を潜航していきます」

沈黙の館に海水が押し寄せてみしみし軋むような錯覚。

「…するとある時、
その実在しない魚の下腹部から、
実在しない哀れなヴィーナスが命あらわれ、
みずからの上で、不穏な、何もない、がらくた市(いち)をもよおす。」

青夜が震える声で復唱する
「命あらわれ、みずからの上で、不穏な、何もない、がらくた市をもよおす」

「実在しない買い手たちが、笑みを讃え、闇を湛え、
そのがらくた市に出入りし、行き交う。
あやしげな取り引き。物々しい物々交換。
物騒でモノクロの、モノガタリ。
それでもがらくた市のヴィーナスは、まれにどこからともなく降りてくる不穏なオスの〈夜〉にしか胸の内を打ち明けない。なぜなら、
訪れのたびに謎めいて広大になる〈夜〉のカラダの銀河の傷は、がらくたヴィーナスの銀色鏡。持ちこたえねばならない自己凝視。壊れ果てた玩具のための鎮魂狂。
売ることも買うことも、飼うことも得ることもできない、そんな〈夜〉のカラダは、何度も荒ぶり、がらくた市の見世物棚を静かにひっくり返す。そしてそのたびにがらくたヴィーナスは、自分が永遠に地上で裁かれ虐げられていると感じ、黙って啼く。啼き果てると、いつの間にか自分のカラダが金星として空にかかり、本来自分は夜を葬り暁を予感する者だったことに思いあたる

…しかしこういったすべてのことは、実在しないのでした。」

フーミンは読み進めるごとに白の無表情を淡い紅に染めていき、震える手で紙片を画集の上に置く
「…意味が分かりません」

そう言って、紅潮したまま静止してしまった。
凪のような沈黙。
青夜と私は画集をしまい、重い思いでおいとまを告げるべく席を引き、立ち上がろうとした。するとフーミンは目を伏せて
「…ですが…」

部屋じゅうが息を呑む
「そういう…意味が分からない、ということが、生きてることの意味だということは…分かります」

黄金の部屋からの西日がもう、部屋じゅうを貫いている。私は立ち上がりながら、もはや誰に言うでもなく言う、
「それが真実、と思うのです。見つければ終わりになるような真実ではなく、むしろそこから始まるような真実。…今、現在、に意味を求めすぎてしまうと、この世は無意味に反転します。…この絵、〈星空の下に〉には意味がまだない、そしておそらく永遠に、ない。しかしそんな、美しいものなのてす。生まれてきた命は、まだ意味を持たない、ほとんどまだ光の粒子の戯れなのと同じで」

私はなぜかあとが続かない。むせぶような風の音がどこからか聞こえた気がして。青夜が引き取る
「誰かが、このままで、大好きだよ、って言ってくれるのを待ってる絵だと私は思うんです。この〈星空の下に〉。意味のあるなし、ではなく、ただ、好きだよと」

私はまた漆黒と戦う
「そうだね、でもねポロック、聞こえているだろうか。たとえ好きでも好きだと言えない思いもあるだろう。むしろ嫌いだと思える時さえあるかもしれない。それはお互いに、だ。しかしそういう時は一緒に黙って飯を食おう。フーミン、今夜は鍋にされたらいかがでしょう。ネギたっぷりの。われわれが引き揚げたあと、まずはおふたりで存分に食って頂きたい」

青夜は思わず少し笑いつつ
「この絵って一見寂しげですけど、なんだか可愛く幸せそうにも見えてきた。何でもないような日々のことでも大事に、過ごして、日々に色を塗っていけば、意味より楽しさが、まず生まれそう」

「フーミン、いずれにしてもこの紙片のモノガタリはこの絵の答えではないです。ただの私の報告。見つめていたら出てきたモノガタリ」

私はこれを最後のつもりで漆黒の部屋に声をかける
「ポロック、よかったらまた来ていいかな。この2枚の絵を君が問いかけてきた理由はまだ分からない。でもね、おれたちはこの2枚とも凄く好きだよ。いずれ人はみんな死ぬ。われわれも、フーミンもだ。いなくなるということだ。われわれはみんな不在化する。そういう自家爆弾を抱えて生きてる。この2枚のことをもし君も好きなら、きみは生きてるということだ。この絵を見抜けるなら、そこから出る必要すらない。しかしおれは思うんだ。もしどうでもいい世界なら、どうせ意味なんかまだないんだから、きみの色でこの世界を塗りつぶしてやったらどうだろう」
「あ面白い、パパ、世界を塗りつぶす。具体的にはどうすること?」
「うん、まだ考えてない。考えてくれ青夜」

青夜はほとんど考えない。
「うん、そうね、まずは風を切って走ってみたらどうかな。私ならそうする。例えばフード付きのパーカーという鎧を着て、シャドーボクシングしながら、人類史上最凶で最強の人間として、ただ走ってみる。そういう〈色〉を世界に少しだけ塗りつけてみる」
「なるほど。それならおれは帰って星空の下に出てみるよ。晴れてたら。そして周りに誰もいないようなら、もーぐりもーぐり、って叫んでやる」
「何?もーぐりって」
「意味なんかない、ただなんか不穏な祭りが始まりそうだろ?」
「やめてモグリの法律家だってバレちゃう」
「…いや人聞き人聞き」

フーミンをふと見ると微笑みがかすかに唇の横に落ちていて。何か落ち着かれた様子で立ち上がると
「今日はありがとうございました。鍋の準備をしてみます」

青夜と私も微笑んだ。そしてもはや親しげな思いが湧いてきた漆黒の部屋にそれぞれ声をかけて、この、今や何となく賑やかな祭りのあとにも思える沈黙の楼閣をあとにした。

その後ポロックが部屋を出て母君とともに鍋をつついたことを知ったのは、1週間後に届いた母君フーミンからのメールによってであった。
そして例の2枚の絵を拡大カラーコピーして2つの部屋のすりガラスに貼ることをポロックが提案して、実際そうしているらしい。

さらに言えばこの母子は今なお、晴れた日の午後などにはお互いを戯れにコードネーム、ポロックとフーミンで呼びあってみたりしているとのことであった。

青夜は今夜はどうしてもこれ、といって梅酒をロックで持ってきた。たまにはそれもいいか
「おれたちの未解決に」

酔うのが苦手な私もつい呑んでしまう、悲しさと喜びの混じったような旨さであった。