プロフィール
【ピアノとバレエに憧れる】
千葉県市川市で生まれる。
4才からカワイのグループレッスンでオルガンを習い始めました。
当時、自分のことをお姫様だと信じて疑わなかった私は、
「お姫様はピアノと踊りができなければいけない」
という信念のもと、住んでいた団地の中心にある集会場で行われていたレッスンに通い始めました。
両親から聞いた話によると、幼稚園のころは、粗大ごみ置き場から拾ってきたほとんど音が出ないオルガンで練習していたそうです。
同居していた父方の祖母が自宅で練習をみてくれていたのを覚えています(両親は共働きで普段家にいなかった)。
リズムや音符のカードを作ったり、まるで先生のようでした。
今の私があるのは祖母のおかげです。
【運動神経ない?】
音楽以外の面では、当時から本が好きで、自宅にあった50冊の絵本童話全集を繰り返し読んでいたのを覚えています。
運動はたいしてできなかったのですが、周囲の子どもたちがまだ競争という意識がなかったため、その意識がある私がかけっこで勝つことが多く、自分のことを運動神経もよくピアノも勉強もできるすごい子だと勘違いしていました。
いまだに父がよく話している、運動ができないというエピソードのひとつがあります。
昔自宅にあった鏡台からジャンプして飛び降りたときの話です。
少し高い台だったため躊躇した私が「どうやって飛び降りればいいの?」と聞くと、父は「そのまま降りればいいんだよ」と答えました。
すると、私は本当にその立った姿勢のまま顔面から倒れて床に落ちたそうです。
見ていた両親と祖母は開いた口がふさがらなかったとのこと。
きゃー!
【小学生、念願のアップライトピアノ🎹】
小学校入学時に念願のアップライトピアノを買ってもらいました。
そして、カワイの先生が独立し、その団地(防衛省の官舎で世帯数はかなりありました)内で出張レッスンを始めたため、小学校時代はずっと自宅に教えに来てもらっていました。
オルガンでのグループレッスンから個人レッスンに変わると、それまでは「少し厳しい」程度だった先生が「かなり厳しい」先生になりました。
ミスタッチに厳しかったので、とにかく間違えずに弾くことだけに必死になっていました。
当時、「楽譜を読んで弾く」ことは教えてもらいましたが、「音楽」を教えてもらったことはなかったと思います。
【ピアノさん、受難の日々】
練習も辛く、毎日泣きながら弾き、間違うとイライラしてピアノを蹴飛ばす日々。
3才年下の弟がピアノを習い始めると、長男が大切という昔の人である祖母は弟のことに一生懸命で、私は段々と放っておかれるようになりました。
かえってそれがよかったのかもしれませんが…。
そんな中、2年生のときに、その先生が出産のため違う先生にバトンタッチしました。
2人目の先生は、同じ団地出身の、武蔵野音楽大学の学生さんでした。
バイエルが大嫌いだった私にその先生がくださった「ピアノのABC」という楽譜。
その楽譜で、初めて「音楽ってステキだな」と思いました。
ピアノがすごく好きになったは4年生で「インヴェンションとシンフォニア」を弾き始めてからだったと思います。
インヴェンションの1番は弾けるようになるのに半年もかかり、その後も進めるのは大変だったのですが、インヴェンションを始めてから練習時間が格段に増えたことがよかったのか、徐々にいろいろな曲を弾きたいという気持ちをもつようになりました。
そんな私に事件が起きたのは6年生の発表会のときです。
【事件】
それまで舞台で緊張したことがなかった私。
6年生の発表会で、ベートーベン作曲「6つの変奏曲」を弾いたとき、忘れもしない第4ヴァリエーションで暗譜がとんでしまい、途中で弾けなくなってしまったのです。
それをきっかけにあがり症になり、いまだに悩まされています。
ピアノ以外のことに関してですが、1年生のころに、もしかして自分は運動ができないのではないかということに気付きます。
補助なし自転車に乗れるまでに2年以上かかったり、バレエ(お姫様修業のため2年ほどならっていました)では他の人ができることができなかったり、運動会はいつもビリに近かったり、スイミングに2年通ったのにほとんど泳げるようにならなかったり…いろいろなエピソードがあります。
運動はひどかったのですが、その分、お勉強の成績はよかったです。
「本当に頭が良い人」ではありませんが、勉強しなくても学校のテストはできていました。
【本が大好き】
小学校時代も幼稚園時代に引き続き、趣味は読書でした。
1,2年生→童話、3,4年生→伝記、5,6年生→名探偵ホームズやアルセーヌルパンに夢中で、学校の図書館のそのジャンルの本はほとんど読みました。
また、漫画も大好きで「ときめきトゥナイト」の大ファンだったのを覚えています。
部活は5年生からブラスバンド部に入り、5年生ではトロンボーン、6年生ではフルートを吹いていました。あまりできなかったため、エアーのときもありましたが、部活は楽しかったです。
当時通うはずだった公立中学は評判が悪かったため、父の意向で受験をすることとなり、6年生の夏から塾に通い始め、部活は退部。塾に通い、初めて自分が「あまり頭がよくない」ことを知ったのです。
【中学生時代、初めての挫折】
幸い中学受験には合格し、和洋女子大学付属国府台女子中学校に通い始めます。
かなり偏差値が低い学校だったため、体育と美術以外は、授業中寝ていることが多かったけれども常にトップクラスの成績でした。
が、入学早々、音楽においては挫折を味わうことになります。
同じクラスに、エレクトーンを習っており、当時テレビで放送されていた、子どもが作曲して演奏するヤマハの番組に出ている子がいたのです。
その子は勉強も常に1番、絵もプロ並みに上手、エレクトーンしか持ってないのにピアノも弾け、音楽の授業の前に即興でステキな曲をさらっと弾くという超人でした。
小学生のときに「自分は上手」だと勘違いしていた私はもちろんショック!現実を知りました。
挫折を味わいながらも、その頃ショパンのエチュードを初めて聴いて大好きになり、カセットテープがのびるまで聴くなど、クラシック音楽への愛は募っていきます。
そして、徐々に音大への進学を考え始めましたが、毎日何時間も練習するような生活ではなかったです。
練習せずに何をしていたか?もちろん趣味の読書にいそしんでおり、アガサ・クリスティーと恋愛小説を読みまくっていました。
祖母が叔父と同居することになり、初めて祖母と離れて生活するようになったことで自由を満喫してしまったのかも(汗)
【緊張対策…効果は?】
中学時代の思い出は、部活のことが大半です。
人前で緊張しないようになりたくて、演劇部に入部しました。
真面目な私は先輩にかわいがられるタイプだったのか?2年生では会計に、3年生では部長になりました。
部活はとても楽しかったので、それはそれで良かったのですが、緊張対策の方は全く効果なし(涙)
相変わらず、緊張による手足の震えに悩まされていました。
【音大合格! ~大変な日々の始まり~】
高校2年生の冬から、武蔵野音楽大学の迫田時雄先生(日本障害者ピアノ指導者研究会 会長)にレッスンしていただくようになり、高校3年生のときについにグランドピアノを買ってもらいました。
当時の悩みは、脱力ができていないためバッハ以外を弾くときにいつも腕が痛いことと、譜読みが遅いことでした。
それは大学を卒業するときも同じです。
手の進行を覚えるのにあまりに時間がかかるため、普通に通して弾けるころには暗譜ができてしまうというほど。
腕が痛くて弾けないし、とても音楽について考えることなんてできませんでした。
しかし、そんな私でもなんとか武蔵野音楽大学のピアノ専攻に合格。
1,2年生の校舎は入間市だったので、市川市から通学するのに片道3時間弱かかっていました。
それなのにアルバイトまでしていたので、常に寝不足で時間がない日々。
そのバイト先で今の主人と知り合い、大学2年生から付き合い始めたのですが、デートとピアノの両立に苦労しました。
頻繁にデートをしていたうえに20時までしか楽器演奏ができない団地に住んでいたので、練習時間の確保も大変でしたが、その頃の最長練習時間は一日8時間ほどと頑張っていました。
高校生のころからぼちぼちコンクールに出始めましたが、あがり症のため、予選で落ちてばかり…(涙)
大学4年生で最後に出たコンクールでやっと入選し、入選者披露コンサートに出たことが記念です。
また、大学4年生のときに盲目のテノール歌手の伴奏の仕事を大学の先生に紹介してもらい、3公演ほど伴奏者を務めさせていただいたのが良い思い出となっています。
と、ダークな部分がないまま学生時代は終わりをつげます。
【ピアノ教室スタートしたけど…】
卒業後、アルバイトをしながら自宅(実家)で教室を始めるために、ワープロでチラシを作り近所に配ったところ、5人の生徒が集まりました。
レッスンをスタートしてすぐに、自分が教えることが下手なことに気付きます。
思い通りにならない子どもと接する大変さを知りました。
おまけに、音楽的自立ができていなかったため、演奏に関しても指示してもらえないとどう弾いていいのかわからないという、音大卒業の価値のない状態でした。
なんとかしないと…と悩んでいるところで妊娠発覚!結婚することに。
というわけで、私の卒業後の独身生活はたった5か月。
そのうち2か月半は妊婦でした。
【結婚 ~TKG時代~】
貯金無し借金有りの、まだ若い主人との生活ではピアノを置けるようなところに住めるわけもなく、実家にピアノを置いたまま、実家の近所にアパートを借り、ピアノを教えるために実家に通っていました。
結婚して4~5年はお金がなくて本当に大変で、もちろん布おむつを使っていましたし、私の晩御飯はほぼ毎日お米と味噌汁のみというような生活でした。
たまに食べるTKG(卵かけご飯)がご馳走でした。
が、主人はまだ若かったので、本人なりにはやりくりしてくれていたそうですが、お付き合い等でお金を使ってくることも多かったです。
近所に住む母が随分助けてくれたので、なんとか乗り切れたのだと思います。
そんな主人ですが、嘘か本当か?私のことはずっと大好きなのだそうです。
お金はなかったのですが、結婚して6年目、実家の近くに一戸建ての小さい家を購入。
実家からピアノを運び、教室は自宅に移転しました。
【子育て ~長男編~】
自分があまりに子どもの状態で産んでしまったため、長男はかわいそうだったと思います。
子どもはかわいいですが、私にとって子育ては辛いときもありました。
長男は、乳幼児期はずっと泣いているため抱っこ、幼児期はずっと動き続けているため常に追い掛け回していました。
小学校時代、夏休みの宿題のワークを親が丸つけをして提出することになっていたのですが、「ほとんどできているだろう」と思って丸つけをしたところ、全問不正解でびっくり!
自分が勉強で苦労しなかったため、この子は勉強ができないのでは?と思い込んでしまいました。
そんなこともあり、中学時代も大苦戦。
すったもんだありましたが、高校、大学は志望校に合格、その後第一希望の大手ゼネコンに就職し、一発合格率3%と言われている一級建築士の試験に一発合格!
立派な大人に成長してくれました。
【子育て ~次男編~】
長男と3才半違いで次男が生まれました。
次男は寝かしつけなくても、ミルクを飲むと勝手に寝てくれるという、私にとっては天使のような赤ちゃんでした。
字を読めるようになるのも早く、ピアノを教えれば覚えも早いし、やんちゃで活発なところは長男以上でしたが、長男で免疫のできていた私はそんなところもすごくかわいく思えました。
主人はサッカーが好きで、独身時代からずっと浦安で少年サッカーのコーチをしており、子どもたち二人も幼稚園からそこでサッカーをやっていました。
長男は中高サッカー部で今も趣味で続けているのですが、次男はそこまで好きにはなれなかったようです。
あまりやる気がなかったのにもかかわらず、父親の勧めで仕方なく中学校でサッカー部に入部。
当然厳しい部活についていけるわけもなく、段々さぼるようになり、入部して3か月で退部してしまいます。
当時の次男は、父親との関係で心に葛藤を抱えて苦しんでいたようです。
その後、中学2年生の時に学校に行けなくなりました。
後から気づいたことですが、次男は自己肯定感の低下から生きる気力を無くしてしまっていたのです。
スクールカウンセラーの先生とのカウンセリングにより、私自身も自己肯定感が低かったこと、そしてそれが次男に連鎖してしまっていたことなどがわかり、母親である私が変わることで次男も回復していきました。
2023年2月、次男は大学に合格し、「何もしたいことはない。あまり長生きしたくない。」と言っていた頃とは変わり、「やりたいことが出てきた。」と言えるようにもなってきました。
子育てを通して、私は様々なことを学んできました。
長男を通じて『自分で考えて行動すること、目標に向かって頑張ることの大切さ』を、次男を通じて『自己肯定感をつけさせることと、見守ることの大切さ』を教えてもらいました。
レッスンでは、子どもたちが私に与えてくれた大きな学びを活かせるよう、心がけています。
【ピアノ教室】
22歳で5人から始めたピアノ教室ですが、子供が幼稚園に入園してしばらくすると、ママ友から声がかかるようになり徐々に口コミで生徒が増えていきました。
現在、指導歴は24年。3歳から84歳まで、65人の生徒さんが通ってくださっています。
数ある教室の中から私の教室を選んで通ってくださっていることには、感謝しかありません。
当教室は
ピアノこころのほけんしつ
登録教室です。
子どもたちに何かあったときに
ゲートキーパーとしての
役割を果たしたいという
志を持った先生たちが
登録しています。
発表会ダイジェスト
レッスン風景