父の鹿嶋移住について | 現在と未来の狭間

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文芸と自転車、それに映画や家族のこと、ときどき人工透析のことを書きます。

長らく不思議に思っていたことがある。父の鹿嶋移住についてだ。鹿嶋といえば鹿嶋アントラーズで有名な土地だが、別段父は鹿嶋アントラーズファンだったということはない。父はなぜ鹿嶋という場所を選んだのか

私が社会人になって1年目の時はまだ大工をしていた。本人は体力的な限界もあって辞めたがっていたが、業界の人手不足が辞めさせてくれなかった。父の最後の現場は旧実家の近くだったこともあり見に行ったことがあり、そんな話を聞かされた。

父の願いを会社が聞き入れたのはそこから5年もしたくらいだったか。勇退したのち、父が終のすみかとして最初に選んだのは神奈川県秦野市だった。最初は家庭農園などをしてできた野菜を送ってくれたりした。

しかし山の中の寒さが父や母の体には合わなかった。また年金生活の中で家賃住宅に住むことに抵抗があったらしく、温かい場所で家を買いたいという希望があった。たまたまだったのだと思うが、新聞の広告で格安で一軒家が手に入ると知り元々は別荘だった家を父は購入した。それが鹿嶋の実家ということになる。

最初のその話を聞き妻と子供を連れて実家に初めて帰ったときは、なんとも辺鄙な場所に越してくれたものだと思った。実際、鹿嶋の中心地からはずっと外れでほとんど海よりの場所だ。これまでの父、母の介護のブログでも書いてきたが高速バスで2時間、そこからさらにタクシーでの移動が必要になる土地だ。

父の言葉を回想してみると「やっぱり寒いとこはダメだよ、俺は生まれは海の近くだったから、できたら暖かくて海の近くがいい。山ん中はダメだ。」

偶然新聞広告で元別荘を見つけたというのが真相のようにも思う。物件としては当時一千万を切っていたという。リフォームは全て父が自分でやった。板間の張り替えからトイレ、風呂場の手すりなど自身のためのバリアフリー施工を自分でやったという。

そこかからはほとんど年金が貯まる状況になっていた。父は自分が持ち家になった理由を「家賃を払う一方で貯まらないのが嫌だった」と言っていた。結果その目論見は正しかったように思う。実際、二人の預金口座には二人が施設で生活するには十分とも思える預金が残されていた。

ただ介護を考えると、私自身が付ききりというわけには行かなかった。場所の遠さもあるが一番は透析をしているということもある。もう少し近い場所であれば、何かやりようがあるとも当初は思ったが、今はまあなんとかなっているので場所の遠さ自体は気にならなくなってきている。

昨年末からもう5、6回は鹿嶋に行くようになり、縁もゆかりもない土地から、少しずつ親近感を覚える土地になりつつある。やはり自然の多さは老人に限らず自分自身にとっても癒しになる。老後は静かな田舎生活を、と考える人の気持ちもわからなくはないなと思う。

さて、父がこの土地を終の住処にえらんだ理由だが、本人に聞いてみないと真相は不明だが(たまたま新聞広告で見て、というのが真相のような気もする)、実は大工時代にこの辺りに来ていたのではないかという気がしてきた。

というのは父が大工時代には建築現場というのは1ヶ月から2ヶ月くらいの感覚でどんどん変わるということを思い出した。結構、遠くの現場というのもあったし、場所によっては泊まり込みということもあった。子供の頃、父に電車の乗り方を聞くと、大概の場所は知っていて詳しく教えてくれていた。それくらい父は色々な場所で働いていたのである。

もしかすると鹿嶋の近くでも働いていたことがあったのではないか。ありえない話ではなく、実際かなり昔に父に霞ヶ浦への行き方を聞いたことがあったのだ。

もしかすると父は、いろんな場所で働きながらいつかはここに住みたいと考えていたのかもしれない。

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