多様性について | 現在と未来の狭間

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文芸と自転車、それに映画や家族のこと、ときどき人工透析のことを書きます。

今、テレビのニュースや新聞マスコミの記事などに触れて多様性のあり方について若干の違和感を覚えることがある。

日本のマスコミが多様性について言う時、中心となることは男女の平等ということになる。もちろんそのことに全くの異論はない。私も男女間で格差や昇進等に違いがあることは良くないと思っている。

でもずっとどこかに違和感があって、それが何なのだろうかとずっと考えてきていた。問題は多様性を論じるときに男女差であったりジェンダーレスの事ばかりになるということ。多様性というのは色々な考え方や人それぞれの立場といった違いを認めるということのはず。

でもその中に障害者については触れられていないんだよな。あ、そうか、これが自分の感じてきた違和感だったんだとはと気がついた。

多様性を語るとき、とりあえず分かりやすい所から始めるということは分からなくもない。ただし課題はそこだけでも無いはず。でも実際に企業が多様性について取り組むとなると、女性の管理職や役員をどれだけ増やすかという取り組みに偏っている。

もちろんさまざまな取り組みをしている企業もある(ウチはそうだし)。でも全体ではどうなのか? 下手をすれば多様性の本来の目的から外れて、やっている感を出せば良いってところもあるんだと思う。

多様性を一面的に捉えてしまうと、それはもう多様性では無いんだと思う。性的マイノリティという言葉はマスコミでよく取り上げられてはいるが、マイノリティって他にもあるはず。多様性の中に障害者が取り上げられないのはなぜなのか?

おそらくそれは社会福祉の話と混同しているのではないのか。それととりあえず分かりやすいところからということもあるのだろう。

多様性の目的はさまざま違いを認めてそこから新しい価値観を生み出す、生きやすさを実現していくことにあるはずではないのか。今語られるのは男女差の問題やジェンダーの問題のみで、その議論の場に障害者が語られないのはどうしてなんだろう。当事者である障害者が遠慮しているとすれば、それは多様性の実現が実はまだまだ先のことということになる。

あらゆる立場の人にとって多様性が自分事として語られないのであれば多様性は間違って語られているように思う。それって真のマイノリティが置き去りにされるということだ。

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