昼間透析 | 現在と未来の狭間

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文芸と自転車、それに映画や家族のこと、ときどき人工透析のことを書きます。

今週はずっと昼間透析だったが、朝9時過ぎ頃から開始して2時過ぎに終わる。着替えてクリニックを出るのが3時頃になるので、透析で一日が終わってしまうという感じがした。

感覚的なものだけれど夜の透析だと昼間に仕事をして一日の終わりを透析で閉めるという感じなので時間の流れ方が根本的に違うなあ。

終わって帰宅途中で喫茶店に入り、本を読んだりして夕方になるのを待っている。

最近読んだのは山田悠介の「特別法第001条DUST」と「親指探し」今読んでいるのは「キリン」

読んでみて驚いたのは凝った情景描写みたいなものが無い。これはストーリーと台詞しかないと感じた。ある意味、小説として稚拙なのかもしれないが、逆に描写を徹底的に排除した小説って今まで無かったかもしれない。

小説というのはプロットと台詞、描写から出来ていると言って良い。どんな作品でも描写の無い小説って無かったと思う。ライトノベルですらなんらかの描写が存在する。だから小説は印象に残ると言っても良いだろう。でも山田悠介の作品はプロット勝負で書かれた小説なのかもしれない。それだけアイデアは奇抜だし、だから売れるとも言える。

山田悠介の文章はヘタだというネットの書き込みも見た。でも私に言わせれば小説表現って文法を無視して書かれた作品など五万とある。作家は自分の文体(表現としてのオリジナリティ)を目指すために規制の文体を壊すことがあるからだ。だとしたら山田悠介の文体は規制に存在した文体には無いものを生み出したとも言える。描写抜き、ストーリーの流れだけで小説を書いてしまった作家などこれまでいなかっただろう。

でもこれはある意味、規制小説の危機でもある。ストーリー勝負だけで小説が売れることを証明したようなものだ。あるいは挑戦しているのか。ストーリーだけ描写抜きで、感情に訴える作品が出来ると。そう考えるとこの作者は底知れないと思った。

小説は娯楽だと、そこに徹してしまえば文学的描写など存在する必要はない。見方を変えれば戯曲に近いと言っても良いだろう。意図的に戯曲に近づけたとしたら、始めからドラマ化、映画化など狙っていた可能性もある。映画化しやすいとも言えるなあ。

他の文学作品に比べたら敷居も低いと言える。小説の描写部分って、これは作者の視点で書かれているのが普通で、この作品をこう見ろ、と言っている部分でもある。作者が読者の心を揺さぶってくる場所でもある。でも山田はそこを放棄して一切を読者にゆだねた。感情描写も情景描写も抜いて、自分で感じるままに読めば良いとしてわけだ。なるほど堅苦しいルールが無ければ読者は取っ付きやすいだろう。

それでいて奇抜なストーリーを次から次へと出して来る。このアイデア勝負なところが嫌いではない。他の作品も気になってきた。