クリスマスの夜のことです。
妻と二人でローストチキンを食べてワインを飲み、酔っぱらって22時ごろ、早々に寝てしまいました。深夜12時半ごろ、突然「ピーンポーン」。うるさいなあ、と無視していると「ピーンポーン」「ピーンポーン」。仕方なく起きてモニターを見ると、一人暮らしをしている大学生の息子でした。
「どうした?こんな夜中に」
「友達と会っていたら、遅くなって帰れなくなった」
「せめて事前に電話してくれたら。誰かと思った」
そんな会話も早々に息子はシャワーを浴び部屋に入りました。
再び横になりましたが、すっかり目が覚めてしまいました。
天井を見つめていると、急に「置き手紙」のことが頭に浮かんできました。
いつも素敵な歌を届けてくれる冨田麗香さんのブログの中に次のような一節があったからです。
(アメブロ・冨田麗香さんのブログ。ぜひ見てみてください)
大阪の実家に戻り、千日前の路上ライブで熱唱した翌朝、
テーブルには、仕事に出かけたお母さんからの置き手紙が。流れるような筆跡で書かれた手紙が、アップされた写真の片隅に写っていました。
日々、音楽の世界でがんばっている娘への愛情あふれる思いが伝わってきました。心がほんわか暖かくなりました。
小学生のころ、私の母もよく「置き手紙」を書いてくれました。
「お帰り。冷蔵庫にプリンあります。よく手を洗ってからね」
とか
「買い物に行ってきます。手を洗ってパン食べて待っててね」
とか。
手もろくに洗わない行儀の悪い小学生の自分が蘇ってきました。
「置き手紙」の歌はないのかなあ。
布団にもぐり、明かりが漏れないようにスマホをいじると
人気絶頂のVaundyの曲が出てきました。
とっても斬新なミュージックビデオ。流れるような歌詞も印象的です。ですが一回聴いただけではわからないところもありました。ネットにいくつか考察が出ていました。その中の一つに「気持ちにウソをついていた自分への置き手紙」とありました。
アリスの堀内孝雄さんにも「置き手紙」がありました。
こちらはわかりやすい。
一緒に暮らしていた男女におとずれた別れ。「突然に机の上に置き手紙 元気で暮らせとなぐり書き」
曲調も昭和の演歌のようでした。
かぐや姫の伊勢正三さんにもありました。
かぐや姫といえば、昭和フォークソングの代名詞といってもいい存在です。
「君はまだたくさんの紙袋をかかえたままで この手紙を読んでいるだろう これで最後の男の気まぐれとして どこか そこらの窓からすててくれ」
「男の身勝手」を感じさせなくもありませんが、「22才の別れ」「なごり雪」に通じる世界です。
昭和の時代「顔を合わせると言えなくなる。だから手紙で」というのが「置き手紙」の主流だったのかもしれません。
しかし
「一緒に住んだ女性との悲しい別れ」といったドラマティックな経験は全くなく、平凡に知り合い、平凡に結婚し、平凡に家庭生活を送ってきた私にとって、「置き手紙」は母や妻や子供にあてて書くものでした。
そんなことを思っていたら、いつの間にか眠っていました。
翌朝、家を出る時、すでに妻はテレワークで仕事に入っていました。
いつもはLINEですが、急に「置き手紙」をしてみたくなりました。
家を出ました。会社につきました。どうも落ち着きません。
「読んでくれたかな。まだかな」
「置き手紙」は既読がつかないのです。
お昼ごろ、LINEで「読んだ?」と送ってみようかと思いましたが、
「それなら最初からLINEにすればいいのに」と笑われそうで我慢しました。
夜6時半に帰宅
「ただいま」
「お帰り」
「どうだった?」
「うん。順調だった。入金ありがとう」
笑顔でした。「置き手紙」は伝わったようでした。20歳の息子は部屋で寝ていました。
ここまで書いて
冨田麗香さんのカバー「手紙」を聴きたくなりました。
心に響きました。