先日ショッキングな情報が私の耳に入った。

 

それはHartチーム解散の報告であった。

そう、私が現在所属するアトミックチームに移籍するまで、およそ20年間在籍していたHartチームが解散するということだった。

 

解散といってもなかなかピンとこない人もいるかと思うのでもう少し細かく説明すると、Hartという国産スキーブランドがあり、その親会社であったアルペングループがこれまで20年以上にわたり行ってきたトップスキーレーサーに向けたスキー板の開発・生産と選手の育成及び支援から手を引くということである。

 

ご存知の方が多いと思うが、Hartチームはアルペンスキーレーサー湯淺直樹の産みの親でありこれまでの私の人生の全てと言っても過言ではないもの。

そんなチームが解散すると聞き、胸が張り裂けそうな気持ちになると同時にこれまで一緒に戦ってきたHartスキースタッフの皆様方の顔と思い出が走馬灯のように頭の中に浮かび上がり気が狂いそうになった。

 

大高さん、泉川さん、幸平さん、ようすけさん、大竹さん、清水さん等々本当に多くの人の夢と希望を背負い走らせてもらった20年間でした。

 

この20年間、本当に様々なことがあった。

この私の小さな脳味噌では到底収まりきれぬ程沢山のストーリーが巻き起こった波乱と夢に満ち溢れた20年間だった。

 

今日はHartチームにいた頃の記憶と永遠の感謝の気持ちを忘れぬようここに少しだけ、そのストーリーを綴ろうと思う。

 

 

私は9歳の頃にアルペンスキーを始めた。

北海道は手稲山に本拠地を置くSSプロダクツという名のスキー少年団に入団したのがアルペンレーサーを志すきっかけだった。

入団して間もなくレースの魅力に取り憑かれ狂ったように世界一に向けて歩み出したが、道は相当険しいものだった。

 

北海道というスキー強豪地域ゆえに、私の周囲にはとんでも無く強い選手ばかりだった。

今現在も技術戦で活躍する天才武田竜を筆頭に小松、石川、寺島、福島、木原などなど同世代ビッグネームの面々がリザルトの上位を独占し、私なんかは手も足も出ない、いわば空気のような存在だった。

 

ジュニア期の私は壮大な夢を抱き、希望に満ちた輝かしい時期だった。と書きたかったが、実際には目標と現実が乖離しすぎてその膨大な劣等感が心の全てを支配し、非常にダークな時期だったと言える。

「今は関係ない、絶対に彼らを超え世界一になる」と現状に目を瞑り、雑に自分に言い聞かせて生きていくのが精一杯だった。

そしてさらに私の目標を阻む存在があった。それは「イジメ」だった。

 

私は小学校6年生からある人物によってイジメられていた。

Sという当時40歳くらいの男から、殴る蹴るは当たり前の壮絶なイジメを受けていた。

 

Sはとあるメーカーの人間で、私もそのメーカーの用具を使用していたので面識を持った。

イジメが始まった理由は省くが、合宿先で風呂に行っていただけで「ウロチョロするな」と殴られ、倒れていたブーツを直しただけで「汚い手で触るな」と腹を蹴られた。

 

この時期は「絶対世界一になってこの人間のクズを見返してやる」そう雑に言い聞かせて生きていくのが精一杯だった。

だがイジメを受けながらも登りつめれるほど簡単な道のりではないのは明白で、ただでさえ目立たなかった成績はより一層影を潜めた。

そして中学校3年生の時、晴れて私はSのいるメーカーから成績不振で追放されたのだった。

 

使用する用具を決めかねていた私を救ったのは古巣SSプロダクツの佐藤監督であった。

佐藤監督は私の当時の状況を踏まえ、ネームバリューや性能はひとまず置いておいて、金銭的に余裕がありジュニアレーサーを広く募っているスキーメーカーを選ぶことを勧めてくれた。

 

そんな中、ヤマハがスキー事業から撤退しそのスキー生産能力を丸々買い取ってスキー板の生産・販売・そしてアルペンレーサーの育成及び支援活動を始めたメーカーが現れた。

それが「Hart」だ。

 

私は藁にもすがる思いで、その時キロロでスキーテストを行っていたHartチームに懇願し入団テストを受けさせてもらえることになった。

 

テスト会場に行くと面積の大きい仏頂面の男がゴール付近に立っており、スタッフ思われる人たちにあれこれ指示を出していた。

タダでさえ雰囲気が怖いのにその男は体躯に見合った野太い声を発し、より一層の威圧感を発した。

私はその男から「とりあえず3本滑ってこい」と指示を受け、何も言わずに3本滑った。

割といつも以上にいい滑りができて、自分なりには「もしや受かるかも?」と思えるほど好感触だったのを覚えている。

 

だがそんな希望は一瞬にして打ち砕かれた。

 

3本滑り終わった私を前に彼は野太い声でこう言い放った。

「こんな下手くそなガキいらねぇ。」

 

テスト終了

 

 

いやむしろ人生終了

 

 

だが思ったほど心にダメージは無かった。

 

毎日殴られて生きてきた私にとっては入団テストで拒否されることは大したことではなく、さらには当時の私はすっかり打ちひしがれることに慣れていて、心のどこかで「自分の力では受け入れてくれないかも、、、」という心の保険をかけていたせいか驚くほど落ち込まなかった。

だがこの直後に奇跡が起こる。当然、当時の私にはそれにより人生がとてつもない勢いで進み出すことなど夢にも思わなかった。

 

 

SSプロダクツの佐藤監督はテスト後に私の知らないところで野太い声の主と何かを話していた。

どうやらその一言により、私のHartチームへの入団は許可され晴れて新たなる道を進むこととなった。

その一言は後に知ることとなったが、ここでは伏せておくこととする。

 

入団が決まった年の秋、私は初めての海外遠征を経験することとなった。

初めての遠征に出発する際、空港で待ち構えていたのは他の県で私と同様に選抜された見知らぬ同世代の選手達数人と野太い声の主、そして優しそうな顔つきが印象的な男性だった。

 

この野太い声の主の名は大高。大高さんは後に私の人生を大きく変えた張本人である。

そして優しそうな顔つきの男性は泉川さん。 Hartチームを支え、これまでの私の人生にとって欠かすことの出来ない存在である。

 

この遠征で私は人生初の「覚醒」を体験することとなる。

そう。誰にも見向きもされず、暴力でグシャグシャに握りつぶされてゴミのように捨てられた無名選手がたった半年で当時高校3年生であったあの佐々木明に次ぎ1年生でインターハイ2位に入るほどの覚醒を見せたのだった。

この覚醒を現実にしたのは大高さんの力であった。

過去にその野太い声で「いらない」と拒否し、非常に厳しい人間なのかと思いきや、チームに入った途端恐ろしいくらいの情熱と熱意で我々ジュニア世代を統制、指導し、ほぼ全員を全国中学やインターハイで優勝するほどの選手に育てた。

 

この頃から、私は自身が立てた目標に対し僅かではあるが近づいているという実感を持てるようになった。

ほぼ真っ暗だったビジョンは徐々に形を成し、以前より遥かに1日の練習の質が上がったように思えた。

ようやくアルペンレーサーとして帆に風を受け始めた矢先、またしてもSが行く手を阻むこととなる。

 

次のSは私より先にHartチームに実力で買われた7つほど歳の離れた先輩であった。

Sは自分が一番年上でありまた実力も上だったのをいいことにやりたい放題だった。

スキー選手の生命線である脛に蹴りを入れてくる。(後日痛くて滑れないが、休むと言うと仮病だと騒ぎ立てるので休めない)

全力で顔面を狙い至近距離でボールを蹴ってくる。

理不尽にものを奢らせたり、態度が気に食わないと長い説教タイムが始まる。(2時間以上にわたる)

このようにSはとんでもない奴だと思いきや、大高さんや泉川さんにバレないよう彼らの前では可愛い子猫ちゃんを演じ、気に入ってもらえるように振る舞ういわゆる「サイコ」で、当時7〜8人いたジュニアレーサー達のモチベーションを的確にへし折ってくる存在だった。

 

だが私にとってはこんなものは鼻クソ同然だった。

なぜならもうお分かりだろうが、以前からそれ以上のことを散々やられて生きてきたからである。

そのおかげでいつもケロっとしてたせいか、私だけ執拗にイジメられたのは言うまでもない。

 

日に日に激化するイジメだった。そんな中、泉川さんが腰に手を当てて夜遅くまで焦げないようにかき混ぜて作ってくれた激うまのカレー。そのカレーを「また明日から頑張れるようにみんな大好きカレーにしてみました」と言いテーブルに並べた後、「それではちょっと失礼します」と言ってキッチンの隅でワインを嬉しそうに飲む泉川さんが大好きだった。

私はこの人のためにも絶対に世界一になりたいと思ったし、イジメで疲労した心を癒す大切な存在だった。

 

 

Sのやりたい放題帝国は長くは続かなかった。

そのきっかけは川口城二、岡田利修、大瀧徹也という超大型レーサーの入団だった。

この3人は泣く子も失神するほどスキー界じゃ名のあるお馴染みのトップレーサー達だ。

 

城二さんは懐が深く優しく、私のような小物の技術的な悩みを真剣に答えてくれる頼れる大先輩だった。

利修さんはイケメンのくせに思いやりがあるという手の付けられない存在で、チームのムードメーカーだった。

徹也さんは「人間1日や2日じゃ分からんっすよ!」という伝説の名言で生まれて初めて笑いすぎてゲロ吐いたという経験をさせてくれた。

 

この3人がチームに加わったことで、イジメはピタリと止み、気付いたらSは引退してた。

そして公私共に指標となる先輩達に引っ張られるようにして我々ジュニア世代は躍進し、ジュニア世代のタイトルを総嘗めにして行ったのであった。

 

 

 

 

大高さんはあることを私たちにさせた。

それは開発者を交えたスキーテストだった。

本来ならばチームのトップ選手をメインにテストを行い、その卓越した技術や経験を元にスキー開発が行われるのが一般的なはずだ。

そんな中、我々若手にテストをさせ技術者と顔を合わせそして意見を述べれる場を与えられた。

それにはきっと大高さんが我々若手に提唱した言葉の理念に基づいて、そうさせるよう指示したのだと私は分析している。

 

その言葉は「プロ意識」であった。

大高さんは常々私たちにプロの意識を持てと説いた。

プロであるならスキーで飯を食っていくということであり、成績を求められて当たり前の存在である。

したがって、辛い練習に耐えるのはもちろんのこと、進んでそれを当然のように行い、そして毎日の活動を選手として結果を残すということを見据えて行動することであると説いた。

 

この言葉が当時の私にとって、非常に大きな意味を持つものとなった。

この言葉により私は自分の言動や行動に責任を持つようになり、度重なるイジメによって荒れ気味だった心と生活を一変してくれたのだった。

そして何より、清水さん、ようすけさん、大竹さんといった技術者の面々と会うことにより、彼らの夢を背負って滑っているのだという使命感で気が引き締まり、より一層トレーニングに励んだのだった。

 

 

そんな中で私の心をより強く・硬く世界一に差し向け続ける存在があった。

彼の名は横田幸平。

 

彼はサービスマンとして私達の転戦に帯同してくれた。

彼は大高さんのいうプロ意識をより鮮明に私に意識させた。

 

どんなに眠くてもどんなに疲れてても翌日戦う時には刀身に一切のよどみの無い刀を準備し続けた。

それも10年以上。

吸収力と対応力は非常に早く、完璧な仕事をした。

彼の仕事に応えるためには世界一になるしかなかった。

彼の仕事に対し、私の仕事が劣っている。私が世界で3番目になった時ですらそう思ったほどだ。

まだだ。まだ彼の仕事、気迫、信念に応えられていない。絶対に応えたい。なんとかして彼に「よくやった」と褒めてほしい。

いや、言わせてやる。なんなら彼に「君はすごい!君と一緒に仕事ができて幸せだよ!!」くらい言わせてやる。

そう思って過ごし続け、厳しい選手生活において高いモチベーションを保ち続けられる大きな存在であった。

 

話始めればきりが無い。それほど私はHartチームによって人とのつながりや選手としてあるべき姿、理想的な形やスキーの基本。おまけに社会でのマナーや人としてのあり方など様々な方面からご指導をいただき、また影響されてきた。

ただのスキーチームでは無い。家族・友人・会社などという枠組みでは語れないもっと何か大きい輪のなかにいたような気がする。

世界一を志してから、ジュニア期においては全く持って人に語れるようなスキー人生ではなかった。

暴力や自己都合によってねじ曲げられたモノクロ以下だった私の人生は、Hartチームに出会い鮮やかに彩られ香りまで付き、今や子供達に夢を語ることや諦めない大切さなどを語れる人間にまで姿を変えられたのは筆舌に尽くし難いほどの情熱と温もりを持って接してくれたHartチームの皆々様方のお陰であることは言うまでもありません。

 

 

こんな人たちに支えられて私は世界一のレーサーになるはずだった。

いや、ならなければならなかった。

 

私は彼らに謝らなければならない。今も、そしてこの先一生償って生きていかなければならない。

私は彼らに最高の結果を届けることができなかった。

彼らの作った作品を世界で一番高いところに持っていくことができなかった。

その責任は山より重いと思っている。

まだまだ出来ることがあったと思う。今はそのやりのことした事を最大限試し、アトミックという素晴らしいスキーをはき、改めて世界一という山を登り始めた。

 

自分はまだ山の途中。でも振り返ってももうHartチームはいない。

この壮絶な空虚感はどう埋められようか。今の私にも答えが見つかりません。

 

Hartチームは私の生きた証だった。

アルペンレーサー湯淺直樹が産まれ、育ち、歩んできたという生きた証だった。

 

そのチームが無くなり、この上なく残念で、悔しくて、そしてたまらなく切ないです。

 

それでも私はまだまだこれからも戦い、生きて、勝っていかなければならないのです。

 

なので最後にHartチームへ2つの言葉を書き記し、この記事を終わりにし、気持ちに整理を付けようと思います。

 

 

ごめんなさい

そして、ありがとう

 

 

 

 

湯淺直樹