苦しい時も、悲しい時も、どんな時も目標があれば顔を上げて生きていけた。

むしろ苦しい時こそ「こんなこと、大したことではない。」と自分を鼓舞して生きてきた。


毎日の積み重ねがやがて大きな成果となる。と自分に言い聞かせて生きてきた。
だから、毎日毎日狂ったように走った。
ただただ前だけを向いて、雨の日も風の日も雪の日も雷の日も走った。

私は札幌市内でも割と大きめの歓楽街を備えた賑やかなところで育った。
それでもこの足で15分も走れば先の見えないほどの深い樹海に突入でき、自然と街とがちょうど良く混ざり合った素晴らしいところだ。
そんなところで私の壮絶なランニング人生が始まったのだ。

無理をする性格のせいか、昔から怪我が多かった。
でも傷ついても傷ついても前を向くことだけはやめなかった。
レーサーである以上、どんなに痛くても痛みを恐怖に変えない、「痛みを負った戦士」であり続けたいと思ったからだ。

晴れの日は好きだった。天気と同じく晴れやかな気持ちで走ることができて、とても良い「声援」だった。
雨の日は涼しくて好きだった。走る際に帯びる膨大な熱をちょうど良く冷ましてくれるとても良い「声援」だった。
曇りの日は好きだった。自分が速く走ることによって曇り空ですら切り裂いてやるという意気込みを込めてより速く走ることができ、とても良い「声援」だった。

風邪やインフルエンザなどの一般的な病気は強靭な戦士湯淺の手にかかれば1時間も走れば大体治った。


足首の骨が折れてもギブスをノコギリで切って折れた足の踵をうまく使って自転車を漕いだ。
強靭な戦士湯淺はこの方法で全治1ヶ月の怪我を2ヶ月で完治させた。

 
肋の骨は二度ほど折っているが、肋骨骨折の治療はどうせ放って置くしかないので強靭な戦士湯淺は一切意に介さずゴリゴリトレーニングしまくってた。
お陰であれから20年経った今でも疲れた時に痛みが出てくる特殊な身体を得た。

本当に、ただひたすら前に、前に進んできた。

ただひとつ、強靭な戦士湯淺がどうする事も出来ない事があった。

「腹痛」だ。


腹痛の時は流石に走るのも憚る気持ちになる。
大いになる。

特にトイレに行きたくなるなタイプの腹痛の時は最悪である。
これから汗となって絞り出す身体の水分が余計なところから余分に放出され、いざ走り出したときに脱水症状に陥りやすくなるからだ。
かと言って走り出す前に水を飲んでしまうとトイレに逆戻りを余儀なくされる可能性があるため、迂闊に水分摂取はできない。

しかしそこは強靭な戦士湯淺。

私の歩みは決して止まらない。

私はある仮説を立てた。
激しい腹痛に襲われた時こそ、直ちにトレーニングを開始し、汗を絞り出す。
汗によって水分を奪われた身体はいつも通りある事に気付くはずだ。
「あれ、身体の水分足りなくなってきたな、、。」と。
そこであえて口からの水分摂取を断ち、我慢する。
するとどうだろう。
先程まで下から我先にと放出されんばかりに準備していた水分たちも、急激に水分が必要となった身体に呼び戻されるように改めて吸収され、晴れて腹痛も治るのではないか。
このような仮説を立てた。

強靭な戦士湯淺は腹痛になるのを待った。
この仮説を立証する為に。
しかし強靭な戦士なお陰で待てども待てども腹痛はそう簡単に起こらない。

そしてこの説も立証されず仕舞いなのかと諦めムードが漂ってそれすらも過ぎ去って説も忘れかけた頃だった。

時はきた。

ある日私はウグイスガイ目イタボガキ科に属する牡蠣という忌まわしき名の罪深い海産物のせいで、過去に類を見ないほど激しい腹痛を感じた。

しかし強靭な戦士湯淺は説のことを瞬時に思い出し、その瞬間に光の速さでトレーニング着に着替えて家を飛び出した。

そして、走って走って走りまくった。

いつも声援を送ってくれる商店街のおっちゃんおばちゃん達も私と認識する隙も与えぬほどの速さで走った。

汗なのか、冷や汗なのかも分からぬほど、狂ったように走った。

そしてついに、翌日から巷での私のあだ名は晴れて「ゲリ樹」となった。
「痛みを負った戦士」から二階級特進で「ただの痛いヤツ」になった。

なにこれ。


流石にその後しばらく走るのはやめて、一旦自宅に引きこもり、その後、自宅警備員に就任した。


最後まで読んでくれたみなさんも、これをきっかけにもう一度よく考えて欲しい。
なぜ、自分が産まれてくる遥か昔から「無理は禁物」という言葉が存在してるのかということを。



湯淺直樹