3月23日の私のバッハのリサイタルが終わった。
リサイタルなどが終わった時に、無事に終了しましたという方が多いが、実は今回の私の場合「無事」という言葉がピッタリふさわしいコンサートだった。
どうして「無事」かというと今回初めて試みたAMB(アンナ・マグダレーナ バッハ)の写譜をもとにしたボーイングを暗譜して覚えるのに大変苦労したからだ。8年かかったかも知れない。そして最後まで覚えきれていないところも多々あったのだが、かといってそれはそれで、あとで述べるように確定したものではないので、そういったこともあり得ることだと思っている。
この新しい作業は2017年辺りから始めてた。以前にも書いたがAMBの写譜のスラー記号は大変わかりにくい。例えば4つある16分音符のどこからどこまでスラーが掛っているのかは見方によってずいぶん違う。場合によっては随分変てこりんな、普通に考えるとありえないようなものまである。
それから、同じ音型が続いても同じボーイングとは限らない。いやむしろその反対で必ず何か違う。初めの頃はこのほとんどクレイジーなボーイングをやることにどのくらいの意味があるのだろうかと、正直迷った。
かつて1970年代くらいまではこのAMBの写譜は、「歌手だったが音楽家としては素人に近いAMBがかなりいい加減に書いたスラー記号なので真に受けてやるべきものではない」というのが定説だった。
カザルスもマイナルディもトルトリエもナヴァラもジャンドロンもシュタルケルも、、、(多分ほとんど)全てのチェリストたちは「私家版」のボーイングとフィンガリングで弾いていた。
そうしてそれらも美しく心を打つ演奏がたくさんある。私はそういった演奏に「反旗」を翻し断固AMBに従うべきだというような、Puriste(純粋主義者)でもない。
しかしそれを大きく変化させたのはいうまでもなくアンナー・ビルスマだった。つい最近初めて手に入れた彼の本を読んでみるとそのことがかなり詳しく書いてある。
私が上に書いたように7−8年前から、AMBの写譜を出来るだけ忠実に再現しようと試みたのもビルスマのこの考えを知ったからだった。
私たちが学生の70年代の頃のバッハのボーイングの考え方は、少し乱暴に要約すると「この音型はこうだから、それから敷衍したこの部分も同様でなければならない」「こっちとあっちは同じパターンだから同じでなければならない」というパターン化を目指す考え方だった。
この考え方はおそらくバッハの晩年の1740年代頃からベートーヴェンが活躍する1800年代初頭の、ソナタ形式による音楽の大量生産時代を経てロマン派の個人主義的音楽の台頭の時代の音楽感をバッハに当てはめたものに違いない。
「主題」主義とでも呼べる発想で、この主題またはモチーフは元の主題から敷衍したものだからボーイングはこうでなければならないという考えだ。
その先駆者がハイドンとその周辺の作曲家たちなわけだが、彼が100曲以上の交響曲や室内楽曲を作曲するにはある一定のパターン化した作曲法を考えないと到底できないことである。
ハイドンが仕えていたエステルハーズィー大公の宮廷では、1度演奏された交響曲や室内楽曲は多くの場合1回きりでおしまいで、次のコンサートではまた違う曲が望まれていた。
当然のこととして、少ない時間で多くの楽曲を作曲する方法を考えなければならなくなった。それがソナタ形式だったわけだ。この発想で書かれた音楽はそれまで無かった訳ではないが、どちらかというと稀だった。
勢い、アーティキュレーションなども同じ主題を再現するときは同一にすることが暗黙の了解となっていったに違いない。
しかし、バッハの音楽はそういう風に書かれた音楽はほとんど存在しない。
バッハの音楽はいつも川が流れるが如く、海の波のごとくいつ終わるとも知れず、時にはどこに行くのかすらはっきり分からない時空を超えた音楽である。
そういう音楽に上に書いた理屈を当てはめるのはやはり無理があるのでは無いだろうか?
今回はたくさんの方々から暗譜で弾いたことに賞賛された。正直嬉しいが、暗譜は本当に必要なのかどうかは未だに自分にとっては答えのない問題だ。
今回の「新境地」という謳い文句は、AMB(アンナ・マグダレーナ バッハ)のコピー譜を使って弾いた最初の演奏だったのでそうしたのだけれど、10年前にやはり世田谷の高橋さんの作製したアマティモデルの5弦チェロを使って行った全曲コンサートもやっぱり「新境地」なんて書いてあったのを見つけて少しおかしかった。
バッハを人前で弾くときには結局いつも前とは何かしら違うことをしたくなる。
そうして次回弾くときはまた違うことをしたくなる。
それでいいのだ。
人生はスリリングに生きなければ。
この文章は今年4月頃に書いて放っておいたものに加筆訂正したものです。
リサイタルの動画を公開したのを機会に掲載しました。