愛されなおちゃんです照れ

いつも読んでいただき、ありがとうございますウインク

 

 

夢って何だろう?

 

きっと人によってそれぞれ違うと思う

 

中には、「これを口にしたら、人からバカにされてしまうかも」と

 

知らない間に自分で抑えて「なかったことにする」ひともいる

 

私もそのうちの1人だ

 

 

もちろん子どものときはそうじゃなかった

 

しかし、大人になるにつれ少しずつ「なかったことにする」すべを覚えていった

 

なぜなら、「どうやって実現するのか想像できなかったから」

 

そして、「試すのが面倒くさかったから」

 

 

私が通っていた保育園では、シャボン玉液に砂糖を混ぜていた

 

根拠があるのかどうかは分からないけど

 

先生たちが言うには、砂糖を混ぜると、シャボン玉が割れにくく長持ちするのだと

 

 

でも、砂糖が混ざっていると知っている園児たちは

 

シャボン玉を膨らませるより

 

シャボン液をなめることに夢中になった

 

 

頭の中では「美味しい」を想像するけど

 

実際になめてみると

 

甘い石鹸水なだけだから、「おえーっゲロー」となってしまう

 

 

しかも1人の園児がおえーっとしてるそばから

 

ほかの園児たちは自分の舌で試したがる

 

そして、口々に「おえーっ」と言う

 

これも「遊び」の一環なんだ

 

 

大人になるにつれて、私たちはお互いを比較していく

 

これは立派な成長のあかしなんだけど

 

肝心な「おえーっを試してみる」ことを怖がり、試すのをやめてしまう

 

そして、「自分の目に見える能力の範囲内でできること」を探し始めるんだと思う

 

 

それはどうしてなんだろう?と考えてみたところ、たぶんこれなんじゃないかって

 

答えが出てきた

 

 

それは

 

「大人はじぶんの人生のものさしを見ているから」

 

 

子どものときって

 

感受性豊かだったり、臨死体験、重い病気を抱えない限り

 

「死」について深く考えることはあまりないと思う

 

 

それが、20代・30代・40代って節目を生きるあいだに

 

ある程度、「ここまで」という目盛りを作って、じぶんに制限をかける

 

それは、世の中の広告や先祖代々の教えもあると思うけど

 

そのほうが「深く考えなくて済むし、楽だから」なんだと思う

 

 

しかし、最近、この「子どものときの気持ちに戻ってみる」

 

というプロセスが今の時代を生きるにはとても重要なんじゃないか?

 

と考えるようになった

 

 

例えば、実際にエベレストに登る!というのが明らかに大変で無理そうな夢だとしても

 

「登ったらどんな気分なんだろう?」と夢想することはできる

 

そして、可能なら近くの山や富士山に登って体感してみる

 

エベレストの気温はどうだろう?

 

登ったひとのドキュメンタリー番組を観てみる

 

そうすると、なんだか知らないけどじぶんも一緒に登ったかのような気持ちになったり

 

大変さに共感するひとも出てくるだろう

 

「あれ?わたしもやってみたい。つーか、私にもできるかも?」と思うひとも出てくる

 

 

そうすると見えてくるのは

 

一番大事なのは、比較することでも

 

現実的で想定内の目標を考えることでもなく

 

「想像してみること」なのではないか?ということ

 

 

かつて「美味しくてふくらむシャボン玉」を夢見て

 

シャボン液をなめて「おえーっ」とした子供のころのように

 

何事も、想像や体感してみることが大切なんだと思う

 

 

「想像する」だけなら誰にも見られない

 

例えば、「〇〇と付き合いたい」だったり

 

「カレーを浴びるほど食べてみたい」だったり

 

「ちょっとこれ人に言ったら笑われるかも?」ってことでも

 

「想像する」だけならお金もかからない

 

今からでも始められる

 

 

とくに私のように

 

夕飯を選ぶときに

 

そのそばから

 

「健康のために野菜をたくさん摂らなきゃ」とか

 

「コンビニのごはんはからだに悪い」とか

 

なんとなく無意識に周りから受け取ってきた情報で

 

じぶんの欲求を抑えてかかるひとは

 

まず「好きなものだけ食べる」から始めてみてもいいかもしれない

 

 

ちなみに私はコンビニが好きだ

 

なんだか知らないけど、なんとなく落ち着く

 

もちろん、近所のコンビニ限定にはなるけど

 

新商品を発見するのもすごく大好きだ

 

 

本当は作って食べるのがいちばんからだにいいのかもしれないけど

 

「行っちゃダメ、食べちゃダメ」というジャッジを外して

 

「行きたいときに行く」「買いたいものを試してみる」「並んでる本を立ち読みしてみる」

 

など、なんとなく自分のなかで「ダメ」としているものを試してみた

 

 

特に誰からも怒られたり、止められたりしなかったし

 

買いたいものだけ買えばいい

 

べつに「入った以上は買わなければいけない」わけでもない

 

 

そうしていたら、コンビニがパワースポットになった

 

そして思い出した

 

海外旅行をたくさんしていたとき、好きだったのは

 

現地のスーパーやコンビニに行くこと

 

無意識に日本との違いを見るのが好きだった

 

 

そう。わたしが好きだったのは

 

「買えるじぶんを知るため」ではなく

 

「新しいことやものを知って体感すること」だった

 

 

だから、じぶんのあたまの中で

 

「とくに意味のない消費行動」に見えた

 

コンビニに行くことも

 

私にとっては必要なことだったんだ!ってこと

 

これが意外だったびっくり

 

 

そして、そこから「こうしてみよう!」とアイデアが湧いてきたりする

 

 

世の中に溢れている情報やものごとに隠れて

 

一見すると「これ意味あんの?」ってことの中にも

 

そのひとにとって必要だったり

 

周りにとって必要だったりするんだなあ

 

それが分かっただけでも進歩かな

 

 

もちろん今は実験途中のため

 

何か目に見えて説明することは出来ないかもしれないけど

 

私の中ではとても意味のある出来事だった照れ

 

 

以上、愛されなおちゃんでした照れ