私は、興味を持った人物について性格や人柄が描けるまで徹底的に調べ尽くすことを趣味にしている。その人物の言動、あらゆる局面での状況判断、周囲への対応等から人物像を想像し自分のイメージに落とし込めるまで知りたいと思う。とはいえ歴史上の人物、とりわけ時の権力者と対立したあげく非業の死を遂げた者は歴史上から抹殺されることもあり、人物像が描けるまでにかなり苦労し時間を要する場合がある。もっともそこに費やす時間が楽しいのだが。
今回ブログに書きたいと思った三村元親(?-1575)は人物像に迫ることが難しい一人であろう。
まずこの人物に興味を持ったのは、二つ前のブログの冒頭に書いた通り、備中松山藩家老・山田方谷の足跡を辿る旅をしたいと思い岡山県高梁市の備中松山城に行ったことに始まる。自分の足で実際に現地を歩くと予想していなかった場所を見つけたり、全く知らなかった事実を発見できたりして、思いがけず興味の蓋が開き好奇心が掻き立てられる。この感覚が旅とか現地取材の醍醐味なのかな、と思う。
今回はまさにその例で、元々の目的であった山田方谷から脱線してその約300年前の備中松山城主・三村元親に迫りたい。この前に書いた板倉勝重公も脱線みたいなもので、くどいようだがこれが旅の醍醐味というものなのだ。山田方谷については調査の進行によって書きたいと思った時に書こくとにする。
いつものことではあるが前置きが長くなった。
三村家親(1517-1566)の次男として誕生する。生誕年は不詳、肖像画も無く謎の多い人物という印象だ。備中国は戦国初期の段階ですでに守護細川氏の勢力が衰え国人と呼ばれる在地領主が独立割拠する状況であった。家親はこの状況下で他家と縁戚関係を結びつつ毛利氏の西進政策に臣従し、北方から尼子氏の勢力を排除していった結果一代で備中国を平定する。
下剋上による戦国時代の象徴的存在毛利元就にその人物を認められていたというエピソードがあり、政略と軍事に長けた実力者であったと考えられる。しかも領土拡大の野心と実行力が旺盛で勢いに乗じて隣国の備前・美作を侵略し始めるが、この動きに危機感を感じた備前国の領主浦上家家臣の宇喜多直家が放った刺客に永禄9年(1566)暗殺されてしまう。大胆さだけでなく細心の注意を払わなかった為に武田信玄や上杉謙信のように戦国時代の英雄になり損なったようで残念だ。
カリスマ性を持った父親の急死を受けて跡を継いだ元親であったが、父の弔い合戦となった翌永禄10年(1567)の明善寺合戦で宇喜多直家の巧妙な戦略にかかり自軍の4分の1の兵力の前に大敗を喫してしまう。しかし叔父の親成(ちかしげ・?-1609)に後見されながら毛利氏との支援関係を持続して勢力を維持することは出来た。その後も浦上・宇喜多軍との抗争は続き、何度も敗戦し拠点を奪われるがその都度毛利氏の支援を受けて取り戻すという状態が続く。その間に父が居城としていた備中松山城を改修、拡張し要塞化したが、やがて織田信長の勢力が播磨から備前に及ぶと、毛利氏の軍師小早川隆景(1533-1597)は前線の防波堤として長年争ってきた宇喜多氏と同盟を結ぶことを決断する。
常に後援してくれていた毛利氏が仇敵宇喜多直家と同盟することはその中間に挟まれた三村氏は力学的に考えて苦汁を飲む思いで受け入れるしかないのだが、元親は叔父の親成の反対を押し切って毛利からの離反を決断する。
毛利氏の勢力下にある三村氏にとって毛利が宇喜多と同盟を結ぶと必然的に宇喜多とも友好関係になる為、元親は宇喜多直家に追われた浦上氏残党と織田氏と同盟して不倶戴天の敵宇喜多直家と戦う道を選択した。しかし織田氏はまだ播磨の平定に手間取っており、結果的には完全に孤立状態で戦うことになる。理由や背景は違うが、織田信長に謀反し有岡城に籠城して絶望的な反乱を起こした荒木村重(1535-1586)の状況近いものを感じる。
元親が英知を尽くして要塞化した備中松山城は小早川隆景率いる総勢8万の大軍を前に1ヶ月持ちこたえたが内応者が出て遂に落城、元親は妻子、家臣と落ち延びる途中に負傷した為、隆景に捕えられ切腹を懇願し受け入れられた。近親縁者や親交のあった細川藤孝に辞世の句数首を残し、松山城下松蓮寺で自刃した。
8歳の息子勝法師丸は助命嘆願も空しく、斬首された。慈悲に厚い隆景が元服前の少年を斬首に処することから、三村氏の離反に大きな衝撃を受けたことが想像出来る。裏返すと大きな信頼と期待を持っていたものと思われる。
松蓮寺からほど近い頼久寺に家親、元親父子と勝法師丸、隣に先の備中松山城主・上野頼久の墓石が並んでいる。
家系を保ち子孫・縁者や家臣の存続を図ることが生きる目的であることに変わりないが、元親のとった選択は男の生き様として、私の心にある種の清々しさを残してくれた。
岡山県は知る程に深く面白い、まだまだ知りたいことがたくさんあって興味は尽きない。