歴史上人物のお墓参り⑤板倉勝重・西尾市(2) | nao7248のブログ

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板倉勝重は天文14年(1545)に板倉好重の次男として三河岡崎の小美村で誕生した。そして次男であった為幼少時に出家して永安寺の僧となる。

小美村は徳川氏の聖地岡崎城から東海道を東に10km位行った辺りで、板倉氏はこの村の小領主であったと考えられる。

父好重は深溝松平家(家康の親戚)の松平好景の家臣であったが、徳川家康が桶狭間の戦い後に今川家から独立し三河一国を支配する過程で吉良氏との間で起こった永禄4年(1561)の善明堤の戦いで戦死した。兄忠重はこの時戦死したかわからないが、その後弟の定重が家督を継いだ。しかし天正9年(1581)武田勝頼との高天神城の戦いで定重も戦死した為家康の命令で勝重が36歳にして還俗し家督を継ぎ、それまでの生涯30年近くを僧として生きてきた知識、教養を買われ徳川家の行政官としてその敏腕を振るうことになる。

天正14年(1586)に家康が浜松から駿府に本拠を移した際に駿府町奉行、同18年(1590)に家康が関東に移封されると関東代官、江戸町奉行を歴任している。

駿府に本拠地を移すことと未開地の関東への領地替えという徳川家の大きな変革期において奉行を任されていることは、勝重の人柄、裁定や判断力が大いに家康に信頼されていた証明と言えるのではないだろうか。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには、行政官として江戸町奉行職にあった勝重の石高は1000石で、軍団を率いての参戦はないと思われる。家康も軍事的戦力として期待していなかったであろうし、行政手腕を見込んでそのまま江戸の行政に従事していたのではないだろうか。

この合戦で勝利した家康は勝重に三河3郡6600石を与え京都町奉行(後の京都所司代)に任命した。この職は永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を征夷大将軍に据えて京都を軍事制圧した際に、京都の治安維持と朝廷との関係強化を目的とした役目を課したものであった。一時的に京都を制圧したと言っても当時の織田家の勢力は近畿地方まで波及していなかった為、京都の復権を狙う三好党の動きが予断を許さない状態にあったことも見逃せない。

家康に命じられた役目もほぼこの当時と変わらないが、関ヶ原の勝利で徳川家の勢力が圧倒的となった状況下では朝廷を掌握し所司代の管理下に置くことと大阪城にある豊臣家と関連する西国大名の監視、把握が最重要任務であった。

慶長3年(1603)家康が征夷大将軍となった際に従五位下伊賀守に叙任、同14年(1609)には1万石を加増され1万6600石の大名に列することになった。この年朝廷内の風紀の乱れが発覚し(猪熊事件)後陽成天皇と家康の意見を調整し朝廷への干渉と統制を強化した。これが後の禁中並公家諸法度の制定に繋がることになる。そして慶長19年(1614-1615)から始まった大阪の陣で豊臣家を滅亡に追い込むまでの諸大名への圧力、干渉を主導したことで所司代の存在価値を確立した。

茶会により朝廷との融和を図ろうとする茶人大名・古田織部(1543-1615)や遠慮なく大阪城に出入りする筒井定次(1562-1615)のような有力大名に対して、家康の意向を受け何らかの理由をつけ規則違反の罰則を与え切腹に追い込んだことも勝重の働きが関わっていたと言われる。古田織部は将軍秀忠の茶道指南役であったが、その師千利休の精神を受け継ぎ増長する支配者の権力に立ち向かう反骨精神旺盛な人物であり、徳川家にとって次第に邪魔な存在になっていったものと思われる。

不安定であった京都・大阪の情勢を卓越した判断と行動力で徳川家に有利になる形で安定し、元和6年(1620)に19年間務めた職を長男・重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624)に死去、享年79。



西尾市・長円寺にある板倉勝重霊廟「肖影堂」、長男・重宗が父の七回忌に建立した。


京都所司代を譲られた長男の重宗は思慮深く、公平な判断をする名奉行として父親以上の評価を受け就任期間は歴代の誰よりも長い34年に及んだ。1586年、父が駿府町奉行時代に生まれ、身近に父親の仕事を見てきたことが息子の教育に好影響を与えたことが予想される。

次男・重昌(1588-1638)の長男・重矩(1617-1673)が後に京都所司代に就任しており、宗家と重昌の系統がそれぞれ幕府の信任厚く何人か老中を輩出し幕政を支えていくことになった。

武骨で忠義心の厚いことが特徴と言われる三河武士団であるが、江戸幕府成立後は板倉氏のような有能な幕府閣僚の存在がなければ260年に及ぶ政権の安定はなかったであろう。

長円寺を訪れて改めて地味ではあるが堅実に役目を果たす板倉氏の家風に触れることが出来たような気がする。