歴史上の人物のお墓参り③徳川義直・瀬戸市 | nao7248のブログ

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前回紹介した柳生一族の墓地は奈良市柳生下町・芳徳寺の境内裏の山中にある。

芳徳寺は柳生宗矩が父・宗厳(石舟斎)の菩提を弔うために1638年に僧・沢庵を開山和尚として柳生屋敷跡地に建立した寺で、宗矩の4男・列堂義仙が第一世住持となった。

宗矩は自身の知行1万2500石の内200石を寺領として分与して、偉大なる父・石舟斎の供養と一族の菩提を弔う寺を運営し住持を実子に任せられるという、まさに男子一生の願望を実行した人物と言える。境内には柳生家が保存してきた遺品、歴代住持の肖像画を展示した資料館があり、本堂、庭園、墓地と見所は満載である。のんびりした山里をゆっくり散策しながら、石舟斎が修業に励んだ土地、宗矩が天下の兵法指南役になった剣豪の里を肌で感じられる。

 柳生一族には別系統でその存在を世に知られた人物がもう一人いる。石舟斎の長男・厳勝(宗矩の長兄)の子・利厳(としよし1579-1650)である。

大和国内で松永弾正と筒井順慶の主権争いが激化していた1571年、父・厳勝が辰市合戦と呼ばれる両氏の戦いで負傷したため、利厳は幼少期から祖父・石舟斎に剣術を学んだ。叔父・宗矩が柳生家再興を懸けて参戦した関ヶ原の合戦の間も石舟斎は利厳を手元から離さず、修業に専念させていた程の入れ込みようであった。

その後加藤清正に請われ熊本藩に仕官することになったが一年足らずで退去し浪人し、諸国を武者修行として渡り歩いた。1604年、死期が近いことを悟ったのか祖父・石舟斎から新陰流印可状を授かる。1606年に石舟斎が死去した後も武者修行を続け1609年に熊野の兵法家・阿多棒庵から新当流長刀・槍の皆伝印可を受ける。

1615年に尾張徳川家の宿老・成瀬隼人正が主君である尾張藩主・徳川義直の剣術師範として柳生利厳を家康に推挙し、家康は利厳を駿府に招聘し直々に要請した。

これに対して利厳は、受けるのは剣術師範の役のみで、叔父・宗矩のような役目は御免蒙ると条件提示し、家康も承諾して500石で仕官することになった。

その後、1620年に義直に印可を授け、2代藩主光友には三男・厳包(よしかね1625-1694)が師範となり印可を授けた。この流れから尾張藩御流儀として新陰流の地位が確立した。

厳包に師範を引き継ぎ自身は京都・妙心寺に隠居し、塔頭麟祥院に葬られた。

尾張柳生家は家名を存続し新陰流を現代に伝えている。

江戸柳生と称される宗矩と違い、政治向きのことには関わらず500石という微禄ながら兵法を追及する道を選び、またその価値を認められ仕官要請された利厳の生き方も実にかっこいい。江戸と尾張、宗矩と利厳の柳生一族でも対照的で異なる一族繁栄の道を作った二人の人物像は自分の人生において大いに参考となり、お手本にしたい。

タイトルを付けたが徳川義直の人物とお墓参りに触れることが出来なかったので、次回にしたい。