日立の城跡を訪ねて 2 | 古橋 直子のうれしたのしブログ

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助川城址公園をあとにし

ある場所を経由してから 向かったのは

日立市大久保町にある『暇修館』へ。

 

以前、イベントをさせていただいた場所でもあります。

 

 

 

暇修館 は

水戸藩 第9代藩主 徳川斉昭公

藩政改革の一環として

大窪城跡水戸藩の郷校として建てられました。

 

郷校とは庶民教育のために水戸藩が建てた学校のこと。
当初は
興芸館(こうげいかん)といい、村医者の研修施設でした。

 

郷校「暇修館」(当初 興芸館)の建設は

水戸領内では 早い時期に属し

大窪城 本丸跡地につくられ

天保10年に開館

 

水戸の藩校『弘道館』の仮開館より2年前だそうです。

 

 

 

その後、弘化元年(1844年)に暇修館と改め

学びたい者に広く門戸を開きました。

 

「暇修」の名のとおり

庶民が余暇を利用して研修することができました。

幕末、慶応年間に廃校となり

さまざまな変遷を経て、昭和48年に復元されました。

 

 

 

 

その 『大窪城』(おおくぼじょう) とは 

どんなお城だったのでしょうか。


 

 

中世の大窪城は 治承元年(1177年)平氏 大掾宗幹が

大久保の愛宕山(あたごさん)に築いたのにはじまるといわれる。

 

その後、14世紀ごろ、奥州の石川冠者有光の14世 詮光(あきみつ)の

三男 茂光が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となり

以後、大窪郷を支配すること8代200年に及んだ

 

その間 城は 愛宕山から天神山 へ移されたようである

 

さらに16世紀頃、現在の大窪城跡に平城(ひらじろ)が築かれ

佐竹氏の太田城北門の備えとして 重要な役割になったという。

 

 

しかし 8代城主 久光の時、慶長7年(1602年)

家康によって 佐竹義宣(さたけよしのぶ)が秋田へ左遷された直後

徳川方に接収された水戸城奪還を企てて 処刑され、城は廃された。

 

現在では 二の丸、三の丸は ほとんど開発され

わずかに本丸の土塁や空壕跡に往時を偲ぶことが出来る。と。

 

 

ということで

懐かしい『暇修館』へ。

 

管理人さんが 丁寧にご説明くださって、有難うございました。

 

 

 

そして暇修館内へ。

 

わあ、懐かしい。。

そう、この掛け軸。 弘道館と同じ掛け軸です。

 

ここで皆さん、お勉強されていたのですよね。

 

おトイレです↓

 

 

 

 

そして 

管理人さんがご案内下さり

暇修館裏の山の中へ。

 

竹藪のような場所を進むと

驚きました。。

 

暇修館には 何度も来ていましたが

ここには気付かず、初めて!

 

なんと そこには 二重の濠跡がありました。キラキラ

 

土塁もあり、ここがお城であったことがよくわかります。

 

 

このところ、城跡を多く見ているせいか

こうした濠や、土塁、石垣などを見ると

わあ~~~!と 興奮し 感動します。(笑)

 

 

どんなお城があったのか

見たかったぁ。。

 

 

そして

たまたま散歩されていた男性も 私たちと一緒に管理人さんの説明を受け

また

先日、私たちが出かけた 水戸城跡、大手門、二の丸角櫓、弘道館など

「素晴らしかった!」 という話をすると

「ぜひ、行ってみます!」と言って、笑顔で帰られました。

 

とても関心を持ってくださったようで・・

 

人との出会いというのは 不思議なものです。

 

 

管理人さま

本当にありがとうございました。

 

 

 

感謝いたします。

 

 

つづく