日立の城跡を訪ねて | 古橋 直子のうれしたのしブログ

古橋 直子のうれしたのしブログ

音楽、旅、趣味、日々の生活の中で感じたことを、素直に表現し伝えていく
Naoちゃんのうれしたのしブログ。

昨日は BLESSレッスン日でしたが

お天気もよく気持ちのいい日でしたので

 

「今日は 外でお弁当をいただきましょう!」と

みんなでレッスン前に ピクニックへ。(笑)

 

向かった先は

 

『助川城址公園』

 

何度か訪れている場所です。

 

『助川城址公園』。

 

こちらより↑

 

水戸藩 第九代藩主  徳川斉昭公 は 

天下に率先して 海防の重要性を強調し

天保七年(1836年)家老 山野辺 義観を 海防総司という新設の重職に任命し

太平洋を一望できる 助川(介川)村の高台、要害の地形に拠って

城郭を築いて居住させ

異国船の無断侵入に備えさせた。

これが 助川海防城 である。

 

これを 海防城 と通称するのは

一大名の城と異なり

我が国にも 当時、類例のない海防を目的とする

城郭だったからである

 

 

 

この城は 完成までに五年の歳月を要し

総面積は 約68万平方メートル(20余万坪)で

助川小学校の校門付近にあった館入口(城の表門)から

三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)

本丸 と進むに従って高く、本丸には異国船を見張る櫓もあった。

 

 

助川海防城 は1864年(元治元年)9月   

幕末水戸藩の内乱の時に焼失

当時の遺構としては

本丸表門の礎石の一部と、二の丸にあった鳩石だけとなった。

 

しかし 

茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には

百余年前の城郭の面影を偲ばせるものがある。

 

と書かれています。

 

 

 

 

ということで 

 

『助川城址公園』

異国船の侵入に備え 城郭を築いた

『助川海防城跡』を公園としたもの。

 

 

 

1864年(元治元年)に起きた「天狗党の乱」に巻き込まれ

幕府軍の攻撃により落城したようです。

 

 

日立市には こうしたお城が

他にもたくさんあったのですが

今 見ることが出来ないのは とても残念です。が

その当時に思いを馳せたいと思います。

 

 

まずは この階段を上ります。

こういった石垣も 興味深い。

キラキラ光っているのは 雲母?かも。キラキラ

 

 

石段を上ると 右手にあるのが

助川海防城 初代館主 山野辺 義観(やまのべよしみ)

可愛がっていた鳩の死をいたみ 

庭石に自分でその鳩の姿を刻んだという鳩石。↓

だから この辺を 鳩ケ丘 というのかもしれません。

 

 

 

さらに進むと

『養正館 跡』の碑が。↓

こちら↑より

 

養正館(ようせいかん)は、水戸藩主 徳川斉昭から

親切の海防総司という重職に任命され

この地に海防城を築き 水戸より家臣と共に移住した 

家老 山野辺 義観 が 天保8年(1837年)に開設した家臣の子弟教育の施設です。

 

教育内容は、文武一致等を方針とし

4年後に開館された 水戸の藩校 『弘道館』に先駆けたものでした。

 

しかし、時代の急迫と共に武術の修練に重点が置かれるようになったことは

推察に難くありません。

 

教育が熱心だった 水戸藩の政治の実体を知る上で

養正館 依存の意義は大きいのです。 と。

 

 

ということで

なんとあの素晴らしい 水戸の『弘道館』が出来る4年前に

弘道館の先駆けとして この『養正館』が存在していたということです。

 

 

あらためて 

以前には気付かなかった 色々なことがわかり

その時代に思いを馳せる・・・

 

以前とは 見え方も、感じ方も大きく変わり 

感動も大きいのです。

 

 

ひとまず、ここで みんなでベンチに腰掛けて

お弁当をいただきました。

 

 

お弁当をいただいたあとは

更に 上へ向かいます。

 

こちらには 『尊王攘夷』の碑があります。

 

ここからの景色 ↓ 絶景です!

 

そして 石段を上り 更に上へ向かいます。

 

見えてきました。キラキラ

いよいよ本丸です!🏯

 

この石垣 が ここにお城があったことを想像させてくれます。🏯

 

 

こちら本丸の石垣は 模擬復元されたようですが

ここに 本丸館があったのかと思うと感慨深いです。

 

 

こちらは↓ 表門礎石跡。 数少ない遺構です。

 

海がよく見えます。

 

 

太平洋を一望できる 助川海防城

 

異国船の無断侵入に備え、ここから異国船を見張っていたのでしょう。

 

 

当時アメリカやロシアなどの大国が 日本に開国を迫っていました。

そして 外国船が 常陸沖にも出没するようになり

水戸藩主 徳川斉昭は 

海防の重要性を強調し築かせた『助川海防城』

 

大名の居城を はるかに上回る装備を有する城だったそうです。

 

 

多くの施設を備えた大規模なこの城は 焼失し現存しませんが

現存すれば、とても貴重で 重要な存在の城であったことでしょう。

 

 

 

つづく