考察3 | 古橋 直子のうれしたのしブログ

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音楽、旅、趣味、日々の生活の中で感じたことを、素直に表現し伝えていく
Naoちゃんのうれしたのしブログ。

では 気になる神々さまについて。

 

たくさんあるパラレルワールドの中の1つ 

として こういう風にも考えられます。

という意味で 書かせていただきます。

 

 

以前、こちらでも↓考察していましたが(昨年の8月の記事)

考察 | 古橋 直子のうれしたのしブログ (ameblo.jp)

 

この時は、まだ調べ足りない状況でしたので 

私的には、今回の考察の方が、納得いく内容になっている気がします。

 

では まず

 

1.『建葉槌命』(大甕神社 御祭神)『素戔嗚尊』

『建葉槌命』(たけはづちのみこと)倭文神(しとりがみ)

(別名)

天羽槌雄神(あまのはづちおのかみ) 止与波知命(とよはちのみこと)

天破命(あまのはのみこと) 天羽雷雄命(あまのはづちおのみこと)

武羽槌命(たけはづちのみこと) 止与波豆知命(とよはづちのみこと)

 

などがありますが 

こちらは↓ 大甕神社で撮影した大甕神社の由緒が書かれているもの

こちらには葉槌命』 と書かれています。

 

『日本書紀』に登場した倭文神(しずのかみ)で

アマテラスを天の岩戸から誘い出すために 

文布を織ったとされる女神です。(織物・機織りの神様)

 

この女神が、高天原の最強武神 武甕槌神タケミカヅチノカミ)

経津主神(フツヌシノカミ)では服従できなかった

星の神 天香香背男(天津甕星)を封じたといわれていますが。

 

 

この神様 どうしても 女性(女神)とは思えないのです。。

 

葉槌命」の 武 は 武神の。 

槌 は 金槌の そして 葉 は とも考えられます。

 

別名「天羽槌神」「天羽雷命」

どちらにも 男性を表す  があります。

 

とても 女性神とは思えません。

 

 

 

そして 

 

Wikipediaには↓

茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする(一説には素戔嗚尊とも)[21]

 

と書かれており、素戔嗚尊???[21]をクリックすると

 

明治35年に出版された 『日本鉄道線路案内記』が。

その 『大甕停車場』の 名所 の頁に 大甕神社  の記載があり

日本鉄道線路案内記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)より

 

 桜井純一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 大甕停車場」

『日本鉄道線路案内記』皇国敬神会、1902年9月。

大甕神社 ↑

巨大な怪巌層々相重りて数丈の高にそびへ頂に社殿あり。

素戔雄命(素戔嗚尊) を祭る と 書かれています。

 

 

つまり

武葉槌命素戔嗚尊( スサノオノミコト)

 

明治35年に出版された『日本鉄道線路案内記』が間違えて書いたのでしょうか。

御祭神が 途中で変わってしまったのでしょうか。

 

 

 

そして

 

・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の全名は↓

 建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコト)。出雲の神様

 

・大甕神社の御祭神 建葉槌命タケハヅチノミコト)。

 

・・・似ています。

 

 

 

そして この

建葉槌命 → 刃槌  という字に置き換えると

 

 

この 刃=刀 と  から浮かぶのは

 

あの有名な 素戔嗚尊のヤマタノオロチ伝説』が浮かびます。

マタノオロチを剣(刃=刀を鍛造する際、で刀を打ちます)で切りかかり

体を刻み始めると 刃がオロチの尾に達し、切り開いたときに

中から見事なが出てきました。

 

この太刀をアマテラスに献上。

これがのちに 草薙(くさなぎ)の剣

といわれ 皇室の三種の神器の一つ とされることになります。

 

 

また

 

素戔嗚尊(スサノオノミコト)は 

海神であり風神と言われています。

しかも

大甕神社がもともとあった場所は風神山』の山頂。。

 

 

ということから

 

 

 

武葉槌命素戔嗚尊

 

ではないか と。

 

 

 

2.『天津甕星』(大甕神社 地主神)と

 『武甕槌神』(鹿島神宮 御祭神)

 

鹿島神宮の御祭神『武甕槌神』

建御雷之男神、建御雷神建布都神豊布都神武甕槌神武甕雷神

建甕槌之男神、武甕雷男神建雷命 などとも表記される。

 

 

次に Wikipediaには↓

香取神宮の祭神 経津主神 鹿島神宮の祭神 武甕槌神 

の二柱の神が邪神をことごとく平定したが

星の神『香香背男』 だけは従わなかった。

そこで倭文神 建葉槌命 が使わされ、これを服従させたと記されている。

 

 

とありますが 

こちらの 武甕槌神』 謎が多いのです。

 

 

 

諏訪の神(諏訪大社の祭神)

建御名方神』に勝利したにも関わらず

諏訪神社は 全国に約25,000社

 

 

勝利した鹿島の神『武甕槌神』を祀る

鹿島神社は 全国に 約600社

 

不思議です。

諏訪神社の 1/4以下です。

 

 

そして

 

第73世 武内宿禰 竹内睦泰(むっちゃん)先生 は

 

 鹿島神宮の神 武甕槌神」= 香取神宮の神 「経津主神 」

同一神である と。

 

 

「武甕槌神」 

別名 建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)

とありますので  = 経津主神ふつぬしのかみ) 

 

たしかに。。

 

 

 

そして Wikipediaで調べていると

昔、鹿島は『常陸国風土記』では香島と記載される。と。

どうやら、8世紀初頭には香島」から「鹿島」に改称されたと見られている

 

と書かれていました。

 

 

 

 

そして 

 

『鹿島神宮』がある 鹿嶋市

 

鹿嶋=鹿島=香島

鹿嶋 の 「嶋」という字の 山 をとると ・・・

鹿鳥(かとり)=香取 となります。

 

 

 

また

 

社伝では、甕星香々背男(天津甕星)

常陸国の大甕山(現 風神山)に居を構えて東国を支配していた

としている。

 

大甕神社の神域を成している宿魂石

甕星香々背男が化したものと伝えられている。と。

 

 

天津(あまつみかぼし)= 香香背男(あめのかがせお)ですから

 

天津    槌神 どちらにも 甕』があり

 

香香背男  島 と  取 の香香』 

 

 

 

 

また

武甕槌神(武甕神)雷神とされています。

 

 

そして 

大甕神社 がもともとあった大甕山(現 風神山)山頂には 

 

なんと 江戸時代

『風神の石像』『雷神の碑』が建立され風神山の象徴となりました。↓

 

 右が『風神の石像』 左が『雷神の碑』です。

 

↑ 左の『雷神の碑』には 石の表面に

『別雷皇大神宮』(ワケイカヅチコウタイジングウ)

の文字が刻まれています。

 

 

 

別(ワケ)は 

別の神とか 違う名前がある 

という意味があるような気がします。

 

 

すると 

こちらの雷神の碑

 

雷神 『武甕槌神(武甕雷神)

 

のこと ではないでしょうか。

 

 

 

 

とすれば

 

天津甕星が 大甕山(現 風神山)の山頂

に居を構え東国を支配していたとされる その『風神山の山頂』にある

 

『風神の石像』は 風神『素戔嗚尊』

『雷神の碑』は  雷神『武甕槌神(武甕神)

 

どちらも 揃うことになるのです。

 

 

 

 

天津星(天香香背男)槌神武甕神)

 

 

 

 

また

賀郡郷土史では

 

「天孫朝廷の一大障害となっている。眼光は爛々として星の如くに輝き、

骨格は毅然として雲突くばかりに高く、足は剛健にして猛獣の如くに強く、

手は最大にして禽鳥の如くにはやく。

加ふるに幾百幾千万の同族を指呼し 昼は自ら海中の磯神岩の上を漁りて好んで魚介を貪り

夜は巧みに身を晦まして大甕山上の 雷断石 の間隙間に隠れ

進退自在、千変萬化、特獨の長枝を弄して敵を侮り、民を悩まし眼中人なく

また国の尊厳の何たるかを知らぬものであった。(中略)

聞くところによれば、某昔、香香背男の一族は 駿河国、富士山麓の海岸にあって

得意の暴力を以って人民を悩ましてあったが

天孫系の大和民族の発展と共に、段々北へ北へと駆逐せられて

常陸の海岸の一隅なる 三日星の浜辺に転任せられたものであるとのことである」

 

と記述されています。

 

大甕山上の大榊の元、今の古宮と呼ばれる所に祀られたのが始めで、

元禄2年に至って徳川光圀の命により現在地に遷宮となった

(大甕倭文神社

とあります。

 

 

そして ↑や↓の記述のように

大甕神社の岩山全体が「宿魂石」ですが

昔は「雷断石」 とも呼ばれていたようです。

 

 

こちら↓より抜粋させていただきました。

石名坂の地名由来 hc_storia (saki-archives.com)

 

雷断石 についていろんな説があることは

櫟斎も「或説曰」と断って紹介している通りである。

朱の書き入れをした人物はわからない。

とは言うものの、この後も多くの旅人は坂の延長線に「石明神」をとらえている。

 

寛延年間 (1748-51) 著者不詳「岩城道中記」[8]

宿の入口大坂有り。石名坂といふ。 [中略]宿より十弐三丁行、左の方に石明神有り。大甕倭文神宮也。此山全体石山也。 [中略]此上より海辺ミへて景色なり。

寛政年間 (1789-1801) 著者不詳 (仙台藩士)「岩城浜街道中記」[9]

[石名坂村]入口に坂有、石名坂といふ。 [中略]路傍西方に石明神の社有。
天甕神を祀るといふ。廻り四五丁の間、高サ廿丈程の大石の上に社有。東北の方眺望よし。

文政10年 (1827) 小宮山楓軒「浴陸奥温泉記」[10]

石那坂上ルコト四百六十歩。コレヨリ山ニ入ル。西ニ山アリ、東ハ大海眼下ニ見ユ。石明神 を拝ス。大石巖々タル上ニ建セタマフ。是則 雷断石 也。

これら史料は、石名坂の石が石明神 (大甕明神、大甕神社)の雷断石

であることを示している(というか石明神の石は雷断石のことなのだが)。

石名坂村の宿はずれから約1キロメートル東の岩城海道ぞいに石明神はある。

しかも宿の通りの一直線上にあり、現在では石の周囲に木々がしげるが、

かつては雷断石を望むことができたかもしれない。

 

つまり石名坂 は 石明神 あるいは 雷断石 に向う坂 と考えたい。

 

ということで

『天津甕星』『石明神』 と言われ

宿魂石』 雷断石』 と言われていた?

 

 

ということは

名前が変わった ということになり

 

では なぜ 名前を変える必要があったのか?です。

 

 

『天津甕星』『石明神』 と言われ

宿魂石』 雷断石』

 

なぜ断石』 を 『宿魂石』 に変えたのか。

雷神『武甕槌神(武甕神)』

 

 

そして また

 

風神』 の方だけをとり 風神 とし

『雷神』を使わず 風神のみにしたのか。

 

 

大甕神社の御祭神の勝ったとされる神 

の方をとった とすれば

 

倭文神 建葉槌命 が勝利したのですから

 

倭文山 とか 織物山 とか 機織山 とか

 

もともと 大甕神社があった場所なのですから

織物の神 にちなんだ名前の山 にすると思うのですが

なぜしなかったのか。

 

また

 

もし『風神山』ではなく『雷神山』 だったら・・

『武甕雷神』と わからないようにする必要があった?

 

 

そんな風にも思えます。

 

 

そして

 

星の神 「天津甕星(天香香背男)」

星宮神社、星神社などでられています

 

 

 

そして 名前に『甕』 という字が付く場合

 

武甕槌神は

甕速日神(ミカハヤヒ)と共に生まれており その

甕速日は 星宮神社、星神社 られている神です。

 

 

星の神 の名前にはがつけられていたりします。

 

また 

 

 

『武甕槌神』と同一神 とされる 『経津主神』

 

 星宮神社に祀られています

 

 

 

 

 

ということで

 

武葉槌命素戔嗚尊

天津甕星(天香香背男)=武甕槌神(武甕雷神)

 

 

 

とすれば

 

出雲の神 素戔嗚尊(出雲族) 

武甕槌神 を封じ込めた・・・

 

とすれば 

 

『武甕槌神』は

建御名方神』に勝利したにも関わらず

 諏訪神社は 全国に約25,000社

 

 

勝利した鹿島の神『武甕槌神』を祀る

鹿島神社は 全国に 約600社

 

 

諏訪神社の 1/4以下になってしまうのは

わかる気がします。

 

 

そんな風に 思うのでした。

 

 

 

つづく