考察2 | 古橋 直子のうれしたのしブログ

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それでは 考察に戻りたいと思います。

 

最初に、先程、表先生の動画を見させていただいて

 

『鬼門』という場所が 青森県の『岩木山』のことを

話されていました。

 

やはり 私の考察は 違ったか。。と思いましたが。

 

 

『常陸国』の歴史

 

気になる点 を書かせていただきたいと思います。

 

 

 

では最初に 

 

第73世 武内宿禰 竹内睦泰(むっちゃん)先生 は

 

古代より 1人の王が国を治めるのではなく

祭祀を司る 祭祀王 と 武力を司る 統治王  

2人1組で国を治めていた と。


祭祀王の方が 統治王より位が上であり

祭祀王 が本当の「王」である。
 

祭祀王は女性がやる場合も、男性がやる場合もある。

 

イザナギ、イザナミ 世襲制 であり 役職名 

何代にもわたり 異なる場所に存在していた。

 

アマテラス、スサノオ、ツクヨミ の三氏族のトップも

世襲制 であり 役職名で それぞれ別の本名もあると。

 

ですから、時代背景が合わなかったことなどが

なるほど。。と理解できます。

 

第73世 武内宿禰 竹内睦泰 というように 73人の武内宿禰 がいる

ということです。

 

ですから 天照大神 も 第何代 天照大神 

となり、何人もの天照大神がいらっしゃり

天照大神が 女性だった時もあれば 男性だった時もある ということです。

 

 

このことを踏まえた上で 

 

最初に

日本には その地域によって

色々な口伝、伝承、歴史書などがあり

特に 神様のお名前 や 天皇のお名前が

〇=△=□=・・・。と

え!? この神さま が この神さま で 同一神?

 

ということだらけで ここには書ききれないほど

複雑に絡み合っています。

 

そして 何より 私の考察は 

あくまでも 

たくさんあるパラレルワールドの中の1つ 

として 

 

こういうこともあり得ます 

 

という話として

これが正しく、真実です

ということではなく

 

こういう風にも考えられます。

という感覚で 書かせていただきたいと思います。

 

 

 

正直、ここまで歴史がごちゃごちゃに

名前 を 書き替えたり

いくつもの名前を持っていたりしては

もう真実がなんなのか、正直

あまりにも複雑すぎて わかりません

 

 

そんな時 は 

シンプルに

感覚的に捉えて感じてみる 

のが1番だと思っています。

 

再度、書きますが、あくまでたくさんあるパラレルの中に1つ として。

 

 

それでは 最初に

地図について。

 

1.昔の地図は 北が上ではなく 東が上

 

日本中に色々な古史古伝、口伝、伝承、書物、遺跡・・など

その時代を物語るものが山ほどあり どの角度から見るかによって

全く違った歴史が浮かび上がります。

それはそうです。その人が意識したものが創造される訳ですから

違う意識で世界を見れば、違う世界が映し出される訳ですから。

 

ですから、私の書くことは 私の世界からみた世界となります。

 

私は、単純に こう思っていました。

 

昔から

 

日出ずる国 常世の国『日本』 

 

と言われているのに 

都 と言われているのは なぜ 日が沈む 西 なのだろう。 と。

 

単純にそう思いました。

すると、こんなことを知りました。

 

昔の地図は、北が上ではなく、東が上だった。と。

 

こちらは↓東を上にした日本地図(逆さ地図)が書かれた本の表紙

ですが、どこが日本の東 1番上になっているでしょう。

逆さ地図で解き明かす新世界情勢—東アジア安保危機と令和日本の選択

常陸国、下総国あたりだと思います。

 

最初に太陽が昇るのは 地図から見ると

常陸国・下総国 そんな風に見えます。

 

万葉の時代、関西地方の人は

常陸国 を別名「日出ずる国(ひいずるくに)」と呼んでいたのも

地図を見ればわかります。

 

外国からも 東を求め、多くの人たちがやってきた。

 

 

 

田中英道教授は

古事記・日本書紀 は 関西系の人がつくったものであるため

東国(東国=高天原のこと)の特徴が書かれていない。

そのため 関西系大陸系(弥生)文化が日本の主流となっていた。と

仰っています。

 

 

 

もちろん、沖縄・九州でも縄文文化はありました。

が、九州付近での火山の爆発により そこで生き残った

関東・東北の人たちが中心となって、1番栄えた縄文中期~の日本を創り上げていった

 

そして 重要なのは

東日本が 縄文時代の中心でしたから

縄文人は 漢字ではなく、ヲシテ文字を使っていました。

 

中国から漢字が伝わる前の、古代日本で使われていた文字は

「神代文字(かみよもじ/じんだいもじ)」と呼ばれ

「ヲシテ文字」はそのうちの1つ。縄文時代から使われていたと考えられています。

 

そして 縄文人は あまり 言葉 を使わなかったそうで

テレパシーを使い、交信することができたので

さほど、言葉は必要なかったようです。

ですから、書物に書き記す必要性もなかったのでしょう。

 

 

 

 

そして

数々の歴史書、口伝などで伝えられている

神様や天皇のお名前

 

上に述べましたように 

違う名前に書き換えられていたり

いくつも名前を持っていたり

世襲制で役職名であったり

わけがわからなくなるほど、複雑です。

 

つまり 当時の西日本では

皆で分かち合う という

縄文の生き方、考え方、生活などとは違う文化

 

戦をし、奪い取る という

権力争いの時代が

長く続いたからこそ

名前を変えたり

いくつも名前をもったり

歴史を書き換える必要があった

 

のだと思います。

 

 

 

縄文時代は

1万年以上つづき

争いがなかった時代。

 

そこに 

弥生時代になると渡来系の方たちが

東側にどんどんやってきて

 

縄文の生き方に 

弥生の生き方が少しずつミックスされ

いつしか、弥生文化が 中心となり

争いの時代がやってきた 

 

 

それは決して

悪い事ばかりではなく

 

素晴らしい知識、学問

素晴らしい道具や技術など

 

現在、このような物質的に恵まれた

豊かな世の中になったのは

多くの知識や技術を

運んでくれたのも

西日本側の方々のおかげだと思います。

 

 

 

 

 

また

日本の風土記の中で 天孫降臨・アマテラスの記載があるのは 

『常陸風土記』のみとのこと。

 

 

そして

延喜式に書かれている

平安時代 「三大神宮」 と言われた

伊勢神宮(三重県)、鹿島神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県) のうち 

2つが なぜ 関東地方にあるのか。

 

日出ずる国 日本の 「日の出の場所」だから

太陽神の 『伊勢神宮』と共に大切にされていたのではないでしょうか。

 

しかも

 

鹿島神宮 は 非常に不思議で

ふつう、鳥居をくぐり、参道を通ると正面に本殿があることが多いそうですが

鹿島神宮は 参道の右側に本殿があり、正面ではありません。

 

西側の鳥居から参道を通り右側に本殿です。

 

神社は、北側に立って南を向くか、西に立って東を向く

というのが多いのですが

鹿島神宮本殿南側に立って 北を向いています

 

ところが

本殿の内部 は そうではなく

神様がお座りになる「神座」は西側にあり 東を向き

その前には狛犬さまが両サイドにいらっしゃり

ご祭神 武甕槌神は、参拝者の方を向かず、の方を向いているそうです。

 

参拝者の方を向かず、東の太陽が昇る方を見ている そうです。

 

つまり 太陽を拝む神様 ということではないかと思います。

 

天照様より先に存在していた武甕槌神 は 

太陽そのものを拝む 縄文時代の文化をあらわしているのではないかと

考えます。

 

また 昔から 

『東国三社参り』と言われ 

茨城県にある鹿島神宮息栖(いきす)神社

千葉県にある香取神宮

三社のこと。

 


Wikipediaより↓

江戸時代には「お伊勢参りのみそぎの三社参り」

もしくは「下三宮参り」と称して

関東以北の人々が伊勢神宮参拝後 この三社を巡拝する慣習が存在

 

とのこと。

 

この 東国三社 を地図上で結んでみると

直角二等辺三角形となり、このトライアングル内は

不思議なパワースポットとも言われています。

 

 

 

 

ということで

単純にシンプルに

 

太陽は 東から上る。

地図でその東の1番上になるのは

常陸国・下総国あたり。

 

となっている 

 

これが シンプルに感じるところです。

 

 

 

つづく