考察 1 | 古橋 直子のうれしたのしブログ

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Naoちゃんのうれしたのしブログ。

久しぶりに『常陸国の歴史』について。

 

あくまで、私の考察です。

 

 

以前から常陸国の歴史について 少しずつ調べてきたのですが

??? と思う点が多々あります。

 

まずは その辺から書いていきたいと思います。

 

 

 

 

1.日本列島のルーツともいえる

(5億年前の日本最古の地層)重要な発見が 

   日本ジオパーク認定から 取り消される

 

日本神話 の「国生み・神産み」のお話は 

イザナギ とイザナミ の二神が 『高天原』の神々に命じられ

 日本列島を構成する島々を創成し、多くの神々を生み出すというお話

 

その舞台 は 日本の西側の地域 となっています。    

 

 

ですが 

近年 日立市から常陸太田市にかけての山地

日本で最も古い 約5億年前の「カンブリア紀」の地層

が発見されているにも関わらず

地元の方にも あまり知られていません

 


日立市郷土博物館特別専門員で 茨城大学名誉教授の 田切美智雄 教授

 

2008年(平成20年)、日立変成岩の一部が

約5億600万年前のカンブリア紀のものであることを発見、発表しました。

 

それまで 日本最古とされてきたのは

岐阜県オルドビス紀(約4億9000万~4億4000万年前)の地層でしたが

 

この発見で、日本列島ができあがる遥か昔

ゴンドワナ超大陸時代 からの大陸の変遷や

日本の成り立ちが分かるのではないかと期待されています。

 

 

さらに 

2014(平成26)年には

宮田川不動滝地下にある「日立鉱山鉱床」の銅鉱石(日立市)

を調べたところ

5億3300万年前のものであることが分かり

日本最古の地層の年代値が更新されました。


また 2019(令和元)年には

東北大学を中心とするグループが

この鉱床から 新鉱物「日立鉱」を発見

 

 

茨城県内から新鉱物が発見されたのは初めてであり

この発見は 地層が形成された頃の地球の環境が

どのようであったかを知る手がかりとなり

さらには新材料開発への寄与が期待されます。と。

  

 

こちらの記事より抜粋↓

カンブリア紀地層|日立市公式ウェブサイト (hitachi.lg.jp)

 

田切美智雄教授の記事より↓

定年時代/茨城版/平成23年9月号 (teinenjidai.com)

 

 

 

日立市郷土博物館特別専門員であり

茨城大学名誉教授を務める田切美智雄氏(66)は

 

日立市と常陸太田市に広がる

多賀山地の約3分の2の地層が

日本最古の5億年前のカンブリア紀

のものであることを発見しました。

 

 

「これだけ古い地層は 日本には他にありません 

  このことにより 中国東北部と日本が5億年前につながっていたことが分かります。

  多賀山地は日本列島のルーツといえるでしょう」と。

 

十王川から南に 

石尊山、神峰山、高鈴山、真弓山のすぐ西までの

広さ約60平方キロメートル(多賀山地全体の約3分の2)が

5億年前のカンブリア紀の地層であることを突き止めたそうです。

 

国内最古の地層です。

 

 

これは 日本の成り立ちに関わる重要な話です。

 

 

ところが 

地元の方でも 関心がある人は 知っていますが

知らない方も 実に多く

全国的にも ほぼ知られていません

 

 

大きなニュースになっていい話 であり

日本のルーツを知ることができる 

とても重要で貴重な発見 

ですから 普通なら大きく報道されると思うのですが...。

 

 

そして 更に残念なのは

 

日本最古の地層として

2011年に 日本ジオパークの認定 を受けましたが

2015年に 日本ジオパーク委員会の四年に一度の審査で

運営体制の脆弱さや 関係機関の連携不足などを指摘され

二年後までの改善を求められる条件付き再認定となり

運営の強化に努めるも、ジオパーク委は課題解決ができていないと判断。

 

2017年12月に 認定取り消し

と なったのです。

 

これは・・・もう残念でなりません。

 

運営体制がどうか とのことですが

歴史的な重要な発見 ということであれば

 

運営体制云々 というより 

日本最古の地層が 発見されたという事実

これは きちんと取り上げ 残しておかなければならない

教科書レベルの話だと思います。

 

 

取り下げられ 認定されない...というのは

そうなるとまずい 何か があるのでしょうか。。

 

茨城県ジオパークとして

再認定されることを 心から望みます。

 

 

こちらの記事もぜひ↓

日本最古の鉱床から新鉱物を発見!! 〜放射光X線回... | プレスリリース・研究成果 | 東北大学 -TOHOKU UNIVERSITY-

 

 

 

また 田切美智雄 教授は 

2023年10月22日 ひたち生き生き100年塾主催

「地学特別講演会・日本最古の地層と小木津山自然公園・東連津川界隈」の講演で

 

「化石が見つかっていないのは当然です。なぜかというと火山岩ばかりだからです。

花崗岩というのは地下深いところでできるので、そんなところに化石がある訳がない。

火山岩ならあってもよさそうだけれど、火山が噴火しているところに生き物が寄り付きます?

よほどの偶然じゃなければ、化石は見つけられないです。ただし、らしいものはあるよって

言っておきます。」と。

 

 

カンブリア紀の年代測定には、『放射年代法』を使うそうです。

 

20億年前の大陸である中国地塊にプレートが沈み込んでおり

中国地塊と海溝の間に、火山島孤ができ、日立カンブリア紀層が形成。

 

海の中で火山活動が起こり、日立のカンブリア紀層 火山岩 火山島孤が出来上がり

火山岩の根っこには カンブリア紀の花崗岩 が出来上がった。

 

「日立には カンブリア紀の火山岩 と カンブリア紀の花崗岩

  セットであるよと。

 

ただ

西南日本には、飛騨 や 隠岐 に 中国地塊の断片が残っている、とあるので

 

第73世 武内宿禰 のむっちゃん先生が話されていた

神が降りた とされる 日高見国 飛騨の位山

(むっちゃん先生は ここを 日高見国 飛騨の位山 と言っていました)

そして 

 

隠岐の島 (島根県)...

 

歴史的にとても気になるところですが 地質学的にも 出てきます。

 

 

 

そして

 

田切教授は、日本書記に登場する

神代の昔、常陸国の大甕山(日立市 風神山)に居を構え

東国を支配していた 天香香背男(別名:天津甕星』 を封じ込めたとされる

大甕神社の『宿魂石』の年代まで測定されたそうです。

 

 

なんと

大甕神社の『宿魂石』  

4億9600万年前 の石 ということがわかりました。

 

 

『天津甕星』は 日本書記 第二の一書では 天津神となっており

経津主神・武甕槌命が、まず高天原にいる『天香香背男』

別名 天津甕星 という悪い神を誅してから葦原中国平定を行う 

 

と言っており、 天津甕星 は 高天原にいる と書かれています。

 

 

 

また Wikipediaでは↓

 

星や月を神格化した神は世界各地に見られ

特に星神は主祭神とされていることもある。 

 

しかし、日本神話においては 星神 は服従させるべき神

すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。

 

これについては、星神 を信仰していた部族があり

それが 大和王権になかなか服従しなかったことを表している 

とする説がある。 

 

と 書かれています。

 

 

 

 

 

2.日本史から消された『日高見国』

 

話は カンブリア紀 から 縄文時代 へ。

 

こちらが↓ 

縄文時代の人口分布図

 

縄文時代 

九州~東北までの日本の全人口

縄文中期で最も多く 26万人 だったそうです。

 

縄文前期には 九州~東北にかけて縄文人がいました

紀元前5300年位に 九州のすぐ近くで アカホヤ大噴火 が起こり

縄文文化を営んでいた日本列島が壊滅状態となり

その生き残った人たちが 縄文文化を再構築していったそうです

 

 

人口が1番多かった 縄文時代中期 は

関東地方と中部地方 が 人口密度が最も高く

人口は 東日本に多く  西日本に少ない

 

基本的に 西日本での人口密度は 東日本の1/10にも満たず

人口密度が東北地方と逆転するのは 弥生時代に入ってからとのこと。

 

縄文時代中期は 

日本は 全国的に温暖となり、食料も多くなり

人口密度も 人口も増加していったようです。

 

ですが

縄文時代後期になると 世界的に寒冷化した時期であり

気温が下がっ たことで食料供給量が減り 急激な人口減少

 

弥生時代には 寒冷化により 人々は 関東、東北から

どんどん南下していくのがわかります

 

 

 

 

 

また 田中英道教授は

縄文・弥生時代 日高見国(東日本) は

関東・東北を広く束ねた 日本の源郷 と言うべき国家 と仰っています。

 

 

こちらは 常陸太田市の竜神峡。上から見ると まさに龍の形をしています。↓

 

さらに

 

国学者 荒井白石 『古史通』において 

 

高天原 は

常陸国(茨城県)の多珂郡 である としています。

 

 

 

また 万葉の時代、関西地方の人は

常陸国 を別名「日出ずる国(ひいずるくに)」と呼んでいたそうです。

 

 

 

そして 

 

常陸国 『常陸国風土記』によれば 

645年の 大化の改新 から国名として正式に名付けられ

『常陸国風土記』の信太郡の条に

「653年、物部河内・物部会津らが請い筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。

 この地は もと日高見の国なり。」

 

とあり、令制国成立前は『日高見国』とされています。

 

 

常陸国は

現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と 

福島県浜通りの大熊 までに至る広大な国でした。

 

現在の福島第一原発付近が 常陸国と陸奥国の境でした。

 

 

その地位は とても高く

関東でも随一の大国 として位置づけられ

その国司は 天皇の親戚である親王が任じられるという

律令制下の重要な要の地 として位置づけられいたそうです。

 

その後 常陸国

西南部を除いた 茨城県に相当する範囲となり

新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)

珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡で構成される。

 

 

 

 

また『日本書紀』でも

 

景行天皇の時代 東日本のことがわからないということで 

東日本へ視察に行ったのが『武内宿禰』

 

武内宿禰 は 帰国すると 

蝦夷(日本列島の東国:関東・東北地方)を討つよう

景行天皇 に進言し、東国の 蝦夷平定 を 日本武尊 に命じました。

 

と書かれています。

 

Wikipediaより↓

「蝦夷」表記の初出は 日本書紀の 景行天皇条 である。

そこでは、武内宿禰 が北陸及び東方諸国を視察して

「東の夷の中に、日高見国有り

その国の人、男女並に椎結け身を文(もどろ)けて 人となり勇みこわし。

是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」

 

と述べており 5世紀頃とされる景行期には

蝦夷 が現在の東北地方だけではなく 関東地方を含む広く東方にいたこと

蝦夷は「身を文けて」つまり邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)

をしていたことが分かっています。

 

 

日本武尊の東征とは「日高見国征伐」のこと

 

もともとあった 日高見国 という東日本へ

西側の人たちがやってきた ということになります。

 

そして 

常陸国は 日高見国の端で 

陸奥国へつながる入口、境界線 であったように思われます。

 

 

大甕(おおみか)の由来 hc_storia (saki-archives.com) より抜粋↓

 

大甕(おおみか)の『みか』は

水を入れる容器 という意味のほかに

酒を入れたり、酒を醸造するときに使われる器という意味。

 

大甕(おおみか)は

酒を入れた器で 神事に使われ

また何らかの『境界』に埋められることもあったことが知られます。

 

よって

 

日立市「大甕」

 

神と人の住む境界として「大甕」が埋められていた

あるいは

「大甕」をおいて 祭祀が行われた地 

 

であったと考えられます。

 

地理的にも 大甕の地は

風神山・真弓山へとつづく 多賀山地の南端 のふもとにあたります。

 

 

 

 

 

 

 

ということで 

 

かつて 日本 は 2つの大きな国 に分かれていて

 

西に 大和王権  

 

東に 日高見国 があり

 

これは「日本書記」の日本武尊 東国遠征の話と一致します。

 



 

日本の教科書では

日本は 西日本から始まった とされていますが

 

実は、東日本から始まった 

 

のかもしれない ということ。

 

 

 

 

 

そしてまた 江戸時代後期に滋賀県で発見された

『ホツマツタエ』というヲシテ文字で書かれた古代の文献では

 

国之常立尊(くにのとこたちのみこと)が世界を作り始めた場所が

『日高見国』とされ、世界の始まりの地=日高見国 と。

 

そして

高皇産霊神(たかみむすび)に日高見国を譲り

高皇産霊神(たかみむすび)は天上の神々を日高見国にまつり

神々が住む場所を 高天原 として栄えさせました。

 

つまり、日高見国は もともと神々の土地であり

日本の原型のような場所だったということ

 

そして、イザナギ、イザナミの国生み・神産み神話へとつながっていきます。

 

代々、統治する神が変わりながら栄えていきますが

天照大神の息子が2人の皇子を西へ派遣したことで 

日高見国は衰退していき

西側・大和王権(現在の奈良県あたり)が栄えるようになった とされています。

 

 

しかし 

 

こうした記録が 日本史に残されていないのは

『日高見国』が 大和王権の支配下となり

また 

のちに書かれた 「古事記」「日本書紀」には

大和王権 以降の歴史 が書かれており

それ以前の「日高見国」の歴史 は 書かれていないのです。

 

 

 

 

 

つづく