平成を振り返って…。 | 仲代奈緒オフィシャルブログ「ココロの部屋」Powered by Ameba

平成を振り返って…。


今日で平成が終わりますね。

元号がこのような形で変わる事が初めてなので、世の中の話題は、連日こればかり。

もう少し厳かに去る元号を感じ、来る元号を迎えたかった様に思いますが、あまりにもどこでもかしこでも「平成最後の!」と騒ぐので、
平成の最後の日に、わたしも平成を振り返ってみようと思いました。


31年前。
昭和最後の日、昭和天皇崩御の日、
1月7日は祖母の誕生日でした。


今でもその時のことをはっきり覚えています。

ニュースで天皇陛下の崩御を知り、祖母に冗談で、
「今日は天皇陛下が崩御されたので、おばあちゃんの誕生日を自粛させていただきます」と言うと、
祖母は、「結構でございます」と頭を下げました。


昭和の終わり生まれのわたしの感覚とは違い、明治生まれの祖母には、それは当然のことだったのだと思います。


祖母は「四代の天皇にお仕え出来た」と言っていて、祖母の長い人生の歴史と重みを感じたのを覚えています。



平成二年、祖母が亡くなりました。


わたしが幼い時、実母は朝の番組のレギュラーをしていたので、忙しく、わたしにとっては祖母は母のような存在でした。


祖母いつも一緒にいてくれて、本当に愛情いっぱいに暖かく、わたしを育ててくれました。

大好きなおばあちゃんでした。

(幼い頃のお雛祭りに祖母と。お雛様のお寿司を作ってくれるのが恒例でした。)



その祖母の死は、身内の初めての死でもあり、とにかく悲しくて悲しくて、わたしは泣きじゃくっていました。



その翌年、わたしは東芝EMIから歌手デビューしました。


(デビューシングル きっと忘れない)


生前、祖母に、わたしが歌手デビューする事になったことを伝えた時、「ふんっ」と祖母は笑いました。


「こんな頼りない子にそんなことが務まるのかねぇ」と言うような笑いでしたから、
祖母に「その姿を見せてやる!」と
デビューの日を楽しみにしていましたが、その姿は祖母には見せられず…。


でも、そんなわたしが、無事歌手デビューをする事が出来たのは、祖母が天国から応援してくれたからかもしれません。



KDDのCMでのデビュー。

東芝EMIのユーミングループのすごいスタッフの大人の方に囲まれてのレコーディング。

南こうせつさんとのテレビ番組のパーソナリティ…。

振り返っても、ものすごく恵まれたデビューだったと思います。


でも10代のわたしにとっては、すごい大人の中で、どう振る舞っていいのか全くわからず、ただただ、人形のように固まっていたことを思い出します。


 

無名塾を遊び場に育ったわたしが、「女優になりたい!」と、言い出すのではないかと恐れていた父にとって、わたしが歌手になったことはホッとした出来事だったようです。


「スクルージ」で初ミュージカルヒロインをした時、その公演を見た父は、
「ミュージカルって芝居があるんだな。
君が芝居をするとは思わなかった。」と言いました。


反対に母は、とても喜んでくれて、わたしが稽古をしているとやって来て、遅くまで付き合ってくれました。




翌年、わたしは大河ドラマ「秀吉」で父と共演しました。

父は「君が女優をするとは思わなかった…」と、ポツリ。
わたしが歌手になるのことに賛成した事が、父が恐れていた、わたしが「女優になる」と言う事と同じ道だったと言う事にその時気付いたようです(笑)


「スクルージ」のヒロイン、大河ドラマ「秀吉」の出演は、わたしには大きな挑戦であり、そこでの経験は今のわたしの大切な礎になっていると思いますが、歌でなく、「演技」と言う新しい挑戦をするわたしを陰で応援してくれた母との、最後の素敵な時間でもあったと思います。



(8歳の時、無名塾のマクベスの舞台に立った時。母がメイクをしてくれています。)


その母が、その年、平成6年6月27日に亡くなりました。
まだ、「秀吉」の撮影真っ最中のことでした。


きっと「スクルージ」の時もきつい身体をおして、一生懸命わたしの稽古に付き合ってくれていたんだと思います。


どこかで命の終わりを感じていた母が、
自分の中にある何かをわたしに伝えようとしていたのではないかと、今、感じます。


その時はわたしはそんな事には、気づいてもいませんでしたが、
あの時間が、かけがえのない大事な時間であったのは間違いないですし、
その時の母から受け継いだものは今もわたしの中に生きている事を感じています。





平成の初めにデビューをしてから、
沢山の方との出会い、色々な作品との出会いで、わたしは歌手としても、
舞台人としても人としても成長を続けてこられたと思います。


祖母に「ふんっ」と笑われた子供だったわたしが、祖母と母との天国からのサポートも受けながら、成長して来られた思います。





平成23年。

わたしは自らのプロジェクトを立ち上げました。

「ねねぷろじくと」


「心ある、力ある俳優さん達と、本当にいい作品を作りたい」

母、宮崎恭子の意思を注ぎ、実母と二人三脚で立ち上げたプロジェクトでした。



今こうして振り返ると、「スクルージ」や「秀吉」を通して過ごした母との時間が、ここに繋がっていた事を感じます。


母の遺した家族の話「大切な人」を朗読劇として上演。

かわいい妹である実母、宮崎総子と、母の遺した想いを形にできたことを、母・恭子は誰より喜んでいただろうなぁと思います。

(母・恭子と、幼い頃の実母・総子)


また、母の愛弟子である、無名塾出身の益岡徹さんや若村麻由美さん、そして山本太郎さんなど、素敵な俳優さん達が出演してくださったり、各地で上演できたり、
実母とふたりで始めた小さなプロジェクトは、今日まで、沢山の応援を受け、広げてこられました。



(若村麻由美さん出演時のキャスト集合写真)

(若村麻由美さんと父と楽屋裏での写真)



(益岡徹さん出演時の写真)


(山本太郎さん出演時のキャスト集合写真)





平成27年。

実母・宮崎総子が亡くなりました。


まだまだ一緒にいい舞台作って行こうと思っていた実母の早すぎる死は、悲しく、残念ではありましたが、
最期は母も、裏方から、元々の出演者の側に戻り、一緒に共演できたこと、何よりの親孝行だったと思います。


本当に嬉しそうに舞台に臨んでいた姿が目に焼き付いています。
  

(実母との最後の共演写真)


(実母と父との最後のスリーショット)


現在、3人の母の天国からのサポートを受け、ねねぷろじくとは益々、素敵なカンパニーになって行きました。


その人がその人らしく生き、その人にしか出せないものを紡ぎ出す。


それがどんなに素晴らしい作品を作れることかと気づかせてもらえたのは、
ねねぷろじくとがあったお陰、ねねぷろじくとに関わってくださった方々との出会いがあったお陰です。




平成最後の今年1月には、
そんなメンバーで、素敵なCDを発売する事も出来ました。




そして、令和元年。

8月16日。


毎年公演を続けて来たこの作品を、
大阪府箕面市の共催を受け、
箕面メイプルホールで上演出来る事になりました。





平成を振り返ってみて、

3人の母との「別れ」があった平成でしたが、その3人の想いや、愛も沢山感じられた時だったなぁと、改めて感じました。



肉体はなくなっても、3人はいつもわたしのそばにいて、いつも見守ってくれている事を感じます。


3人が存在した「平成」は終わってゆきますが、3人の暖かさを感じながら、
新しい元号「令和」も、わたしらしく歩んで行きたいと思います。



平成になった時、祖母が四代の天皇にお仕えした事を、すごい!と、思っていましたが、わたしもこの歳で、三代の天皇にお仕えすることになりましたあせる


わたしにとっての平成が、沢山の思い出溢れる時代だったと同じように、
皆様にとっても、平成は人生の大半を占める、思い出深い31年だったと思います。


令和がどんな時代になるか楽しみでなりません。


きっと愛に溢れた時代になると思います。


その中を歩んで行けることをとてもしあわせに思います。


皆様にとっても、令和が、しあわせ溢れる時代となりますように…。