ニノイアキノデー
フィリピンの祭日だ。
フィリピンの祭日は悲しい出来事の日が多い。
今日8月21日もニノイ•アキノ上院議員が暗殺された日だ。
ニノイ•アキノは国民的大英雄で、彼の命日を祭日にする事で、彼の事は多くの人の心に刻まれ、
アキノ暗殺よりずっと後に生まれた、時計の読めないような子でさえも、ニノイ•アキノのことを知っている。
1983年8月21日ニノイ•アキノ(ベニグノアキノ)上院議員がマニラ国際空港で、暗殺された。
この出来事は当時子供だった日本人の私でさえも記憶にあるほど、衝撃的だった。
20年も続くマルコスの独裁政権に異論をとなえていたニノイ•アキノ。
1972年、マルコス大統領によって全土に敷かれた戒厳令により、反政府側の危険人物とされ、ニノイは逮捕・投獄される。
容疑は、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などで、1977年に死刑を宣告されるが、
マルコスも国民に人気のあるニノイを処刑することはできず、
1980年「アメリカで手術を受けさせる」という名目で、ニノイをフィリピンから追放した。
ニノイは、非暴力主義を掲げながら、歯に衣着せずにマルコス政権を厳しく批判。
国民に対して決して暴力に訴えないよう常に求めていた。
外国生活の中でも、常に反マルコスの筆頭であり続けたニノイ。
亡命から3年、そのニノイが、「国民と共に苦しみ、生きるのが政治家だ。」と、フィリピンに帰って来た。
マルコスに対し政治改革と平和的退陣を直接訴えようとしていた。
戻れば命を失うおそれすらあることをニノイは十分わかっていた。
それでも彼は「政治家に暗殺はつきものだ。」と、暗殺される事も恐れていなかった。
ニノイの最後の言葉は、飛行機を降りる直前、同行していた記者に言った、
「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」だった。
タラップを降りたところで彼は何者かの銃弾に倒れ、彼の言葉は数分後に現実となってしまった。
「苦しんでいる国民のそばにいたい。」と命の危険を分かりながらもフィリピンに戻ろうとした彼は、誰もが知る英雄になった。
500ペソ札には彼の肖像が印刷され、彼が銃弾に倒れたマニラ国際空港は、ニノイアキノ空港と名前を変えた。
そして、30年たった今も彼は大英雄で、命日の今日、沢山のテレビ番組がニノイの特番を放送している。
こんな素晴らしい政治家を持っていたフィリピンを羨ましく思う。
日本人の政治家のイメージが、「利権や自分の命を守るために行動している」というのは、あまりにも悲しい。
日本にもニノイのように国民を愛し、自分の命までかけられる勇気のある政治家がいてくれたら、
今のような事になっていなかったのかな…と、ニノイの命日に思う。