身体障害者はチャレンジド?挑戦を神が強いる? | もやもや病で脳出血発症した元IT系社長の半身不随の障害者岡下俊介言いたい放題ブログ

もやもや病で脳出血発症した元IT系社長の半身不随の障害者岡下俊介言いたい放題ブログ

神戸でIT系企業の社長だったが2008年のリーマンショックの影響で脳出血発症、左半身不随障害者となる。会社は廃業、自己破産経験、一旦人生挫折。死を選択しかかり、その後離婚を経て2020年に59歳でコーチング認定試験に合格、再婚後プロコーチとして再起を目指す起業家です。

もう一度、カタカナ表現と美化表題の疑問について身体障害者として(怒り?を込めて)ブログ記事を書く

 

身体障害者の一人として、最近の身体障害者に対するカタカナ言葉の使い方に対して一つの問題を感じています。

欧米やアメリカではち身体障害者を「チャレンジド」などとと呼ぶことがあり、この日本でも身体障害者を「チャレンジド」などとと呼ぶことを推奨しているようだ。

 

しかし、少なくとも僕はこの「チャレンジド」と身体障害者を呼ぶことは単なるキレイ事であり、身体障害者の真の本質を見誤ってしまうと言わざるを得ないと思う!

この「チャレンジド」という表現がどこから来たのかですが、

「神から挑戦すべきことを与えられた人々」という(以下のサイトにもあるような)意味合いで使うらしい。

 

 

こんな風にやわらかい言葉にすり替えたり、健常者が、自分は差別者ではないと自己満足するための美化した言葉にすり替えることで、障害の本質を見て見ぬフリするための言葉だと少なくとも僕は思うのだ!

 

でも、やっぱりこんな解釈は実際に僕のような身体障害者が直面している身体障害の困難やその背後にある非人間的な生活を美化しているだけで、身体障害者の障害の本質を見て見ぬフリすることになると少なくとも僕は思うのだ。

身体障害者の中には、こんな「チャレンジド」という(単なる誤魔化し言葉)を力強く受け取る人もいるかも知れないが、それはあくまで個人の感じ方であり、全ての身体障害者に当てはまるものではないだろう。

何より、この「チャレンジド」という表現が、身体障害者という個人の個性や人生経験を一括りにしてしまう危険性を孕んでいると感じる身体障害者は僕だけなのだろうか?

僕らのような身体障害者は「神から挑戦すべきことを与えられた人々??」という美化された言葉ではなく、一人の身体障害者としての個性や身体障害者の感情、身体障害者としての経験を(できれば健常者にも理解してもらって)「チャレンジド」という(単なる誤魔化し言葉)で受け入れるのではなく、僕らのような身体障害者を受け入れるべきだと少なくとも僕は思うのだ。

どんなに言葉が美しくてもそれが身体障害者の現実を隠し、身体障害者の本来の苦悩をを無視してしまうことばであれば、それは本当に身体障害者を正しく表すな言葉とは少なくとも僕はには思えなのだ。

健常者の「勝手な解釈」という状況にに陥らないためにも、言葉の使い方は慎重になるべきだと少なくとも僕は感じるのだ。なぜなら言葉一つで人々の感じ方、捉え方が変わることがあるからだ。

つまり、僕らのような身体障害者の本質をきちんと理解し、尊重するためにも言葉の選び方に気を付ける必要があると少なくとも僕は感じるのだ。

美化した「チャレンジド」という(単なる誤魔化し)言葉で身体障害者を一括りにする表現ではなく、身体障害者もひとりの人間としての個性を重視し、理解し合う言葉を使うべきで、「チャレンジド」というような誤魔化し美化した言葉で身体障害者を呼称するのは少なくとも僕はイヤだ。