先日、手紙を通じて交流しているタイの子供(と言っても、もう十代半ばなので小さい子ではないが)の、この一年の成長記録が届いた。
(その子とはNGOを通じて交流している。そのNGOから年一回、その子の成長の様子とその子を取り巻いている環境の変化についてのレポートが届く。NGO→プラン・インターナショナル・ジャパン)
その子のこの一年の成長の記録に「正式な出生登録が終わった」とあった。
日本にいれば、生まれたら日本人として出生登録されるのは当たり前のことなのだが、十代半ばまで、その国の人間として、いつ生まれたのかが公式には分からないままでいる国もある。
正式な出生登録がされていれば、公の教育を受けることが可能になるし、社会の一員として生きていくことが可能になる。
日本にいると、当たり前のことだ、として、それがない場合にどうなるのか、と言うことを想像すらしないのだけど、どこで、いつ、誰の子供として生まれたのか、と言うことが公式に記録されている、ということは、社会の仕組みとしてすごいことなのだ。
成長の記録には、一年前の写真では「可愛なぁ」と思った子供らしさが殆どなくなったポートレートも添えられていた。
表情が素敵だ。
微笑しているような柔らかさはあるのだけど、キラキラした強さがあのある表情だ。
自分の未来を信じている表情だ。
彼女からの手紙や写真を見て読んでいると、私は励まされる。
色々あっても、未来は信じても良いのだと思えてくるのだ。