自動車で通うようになって3日目。
運転に必死なためだとは思うが、農業研修を受けているセンターへの行き帰りの間、欠片も周囲の風景に目が行かない。
ひたすら前を見て、横に気を付け、後ろを確認し、標識、歩行者、自転車、対向車、前方車、後方車、路面の凸凹、水溜り、カーブ、信号機、踏切...
自転車で通っていた時は、気が向くと止まって写真を撮ってみたり、しばらく景色を眺めていたりしていたのだけど。
あるスピードを超えると、人の思考は広がりを持たなくなるのじゃなかろうか?
「人」が(「私」が)対応できるスピードには限度があって、それ以上のスピードになると、余計なことは考えられなくなり、感じられなくなるのじゃなかろうか?
たぶん「私」の適正なスピード(速度)は歩く速度なのだと思う。
歩いていると、いろいろなことに目が行くし、鼻歌も、一人ヘラっと笑いが漏れてしまう面白い考えも出てくるけど、歩く以上のスピードになると、そうした「余計なこと」は減っていってしまう。
自動車なんて、1時間に50kmも60㎞も進めるスピードなのだ。
「私」が余計なことを考えている、感じている暇はないのだろうな。
って・・・
自動車運転に慣れていない愚痴、かな。
運転に必死なためだとは思うが、農業研修を受けているセンターへの行き帰りの間、欠片も周囲の風景に目が行かない。
ひたすら前を見て、横に気を付け、後ろを確認し、標識、歩行者、自転車、対向車、前方車、後方車、路面の凸凹、水溜り、カーブ、信号機、踏切...
自転車で通っていた時は、気が向くと止まって写真を撮ってみたり、しばらく景色を眺めていたりしていたのだけど。
あるスピードを超えると、人の思考は広がりを持たなくなるのじゃなかろうか?
「人」が(「私」が)対応できるスピードには限度があって、それ以上のスピードになると、余計なことは考えられなくなり、感じられなくなるのじゃなかろうか?
たぶん「私」の適正なスピード(速度)は歩く速度なのだと思う。
歩いていると、いろいろなことに目が行くし、鼻歌も、一人ヘラっと笑いが漏れてしまう面白い考えも出てくるけど、歩く以上のスピードになると、そうした「余計なこと」は減っていってしまう。
自動車なんて、1時間に50kmも60㎞も進めるスピードなのだ。
「私」が余計なことを考えている、感じている暇はないのだろうな。
って・・・
自動車運転に慣れていない愚痴、かな。