極楽浄土の概念は、宇宙、そのものだと、先人は考えたはずである。(美粒システムの本質とは) | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 夕方の海岸、穏やかに、波が打ち寄せる。波が引く、砂浜に小さな石を見る。手にとってみる。ほとんどが、平面である。凹凸は、削ぎ落されている。長い年月をかけて、波によって、浸食され丸くなる。そして、いつしか、長い年月をかけて、解砕され、波に浮遊する粒子となる。それらは、乱れとゆらぎを繰り返し、いつしか、石や岩の特性が失われ、均質な粒子へと変遷する。それが、この世の流れ。海岸に打ち上げられる小石も、人間のあり様も、この宇宙全体のありようも、同じである。エネルギーによって、生成され、そして、時間とともに、そのエネルギーが放出し、そして、消滅して、大きなエネルギーの場にすべてが、還元される。見えない物質、しかし、エネルギーは均一に満ちている状態、ある意味、それが、真言宗が、述べている、空の実態。般若心経で、かかれている空とは、エネルギーが均一に満ちている状態。エネルギーが乱れず、揺らいでいる状態、そのことを指すのかもしれない。最終的に、自我をもった人間からみれば、それは、精子と卵子が合一して命が生まれる前の母の母胎の状態、それが、空相であり、そして、一生を終えて、命が消滅したその時が、また空相であろう。そして、この宇宙が、最終的にたどり着く状態もまた、空相の場である。

 

 

 夕方の海岸、打ち寄せられた大木に座る。古の人は、そこで、人の生死を見つめた。多くの死骸が海岸に打ち寄せられた古戦場、明らかに、無常である。盛者必衰の理である。人の一生とは何なのか、多くの人がそう考えた。水平線に、太陽が沈む、真っ赤な夕空が、だんだんと闇に変わる。三日月があれば、月が、金星があれば、金星が輝きだす。木星があれば、木星が輝きだす。そうして、潮騒の音の響きの中から、銀河が浮かびだす。多くの人は、死者の魂も、目に見えない粒となって、この揺らぐ気流にとけて、この宇宙に還元されると思ったはずである。先人は、この無限の星の瞬きが、死んでいった人の魂、そのものだと、感じたかもしれない。星の瞬き、それは、光の揺らぎでもあり、魂も、また、エネルギーの揺らぎなら、宇宙からみれば、光の瞬きと同類なのかもしれない。

 

 

 揺らぐ場、それは美である。しかし、乱れれば、破壊の場となる。この世が乱れれば修羅場となり、殺戮が繰り返す。愛しあった二人、しかし、お互いの業が、自己愛が優先されれば、愛が憎しみに変わる。否定へと変わる。あんなに愛し合った夫婦でも、別れる時は、罵詈雑言になる。最悪は、相手の命まで奪うこともある。乱れれば、この世が浄土だとは思えない。しかし、ゆらぎの場であれば、それはこの世も浄土と感じることもできる。しかし、命は消滅する。生まれた命は、どこかで消える。どこへ消えるのか、山間部の人は、山へ帰る。海岸部の人は、海へ帰る。それは、結局、山の向こうの宇宙へ、海の向こうの宇宙へ帰ることになる。山の尾根から、銀河が昇る。星が流れる。天の川の中に、白鳥が横たわる。

 

 

 日本の歌謡曲に、北島三郎さんが歌う、与作という名曲がある。日本の揺らぎの場を明らかにしめした、名曲である。歌詞とメロディーがこれほど、しみいる曲はない。何気ない与作夫婦の日常を描写した七沢公典氏、作詞作曲の曲である。NHKのあなたのメロディーに応募し、年間最優秀賞に輝いた曲である。1976年の作品でもある。与作は木を切る。そして、その情景の擬態音が、ヘイヘイホー、である。女房は旗や藁をうつ。それが、トントントンである。何気ない山間部に住む与作と女房、夜になれば、星が降る。そして、日があければ、山が与作を呼びこむ。何年、何十年、それが繰り返される。与作が死んだら、山にかえる。女房も死んだら、山にかえる。日が暮れたら、女房が待っている家に与作は帰る。そこにあるのは、人生のゆらぎ、そのものである。彼らにとっては、極楽浄土は、その山間部での日常、そのもの、そして、時間が来たら、山にかえる。山の向こうにある宇宙に帰る。それが当たり前の生活。これほどの情景を歌いこんだ曲は、他にはない。もう50年前の曲である。日本が、経済成長から凋落して、衰退している今、経済も心も貧している今なら、与作がえがく日本の原風景を再認識できるはずである。

 

 

 宇宙は、なぜだか、崩れていない。だから、美しい。そして、安定して、性能がでている組織もまた綺麗で均質である。電池もコンデンサーも医薬品も化粧品も、均質に細分化されれば、そこに、秩序が生まれる。秩序とは、均質な状態、点だけでなく、点があつまった集合体のパターン、それが、均質を構成すれば、そこに揺らぎが生まれ、美が生まれる。星座の美しさ、全部が同じような点の集合体なら退屈する。しかし、明るさ、距離、それらのバランスが均質に保たれている。人間の細胞も同じ、そして、そこに違う異物が生まれたら、どうなるか、それががん細胞である。人の均質が損なわれ、バランスがくずれたら、乱れがうまれ、機能が壊れていく。人が人を構成できなくなる。それが、死である。どうにもならない。

 

 

 日本が作り上げたカーボンナノチューブ、そして、ナノカーボン、材料としては生まれたが、この30年間、一向に用途が進まない。なぜか、エネルギーをかけて、一気に粉砕しようとしたからである。ジルコニア製ビーズのようなもので、たたく。高圧のジェット流に乗せて、壁にぶつけて壊す。そこにあるのは、乱れである。乱れたら、破壊される。その機能も壊れる。それに固執するのは、ある意味、人のエゴ、企業のエゴが、利権があると錯覚し、うごめいている。エネルギーを制御して、カーボンナノチューブを解繊する。不純物や異物があれば、それを取り除き、乱れのない、エネルギーをかけてやる。嵐の海は、乱れて狂暴である。しかし、その下の深海、100Mpaの圧力がかかる10000mの深海も強い海流がながれているが、乱れてはいない。

 

 

 ビックバーンで宇宙は生まれた。そこで宇宙は壊れていない。光の速度を越えられないように、何かが膨張宇宙に圧をかけている。だから、宇宙は乱れない。乱れるものは、壊れていき、ゆらぎ輝くものは、美しくなる。それが、この世の原理である。美粒システムはその原理を採用している。それが、全てである。日本人は、ロジックを右脳で感じる。しかし、ヨーロッパ人、アメリカ人はそうは感じない。風土が異なるからである。この文章も、AIで英訳されるだろう。しかし、これを読んでも、ぴんとは来ない。ゆらぎを感性としてとらえることが苦手だからである。だから、なんなのか、そう質問する。だから、なんなのかではない、だから、そうなのである。それが空相、揺らぎなのである。

 

 

 弘法大師、空海は、この世に揺らぎを見た。それが空相の本質である。法然、親鸞は、阿弥陀如来の先に極楽浄土を夢見た。その本質も、ゆらぎである。南無妙法蓮華経の中に真理があると説いた日蓮も、その概念は、これもゆらぎなのである。乱れたら、壊れる。淀んだら、腐る。その中間にあるゆらぎである。エネルギーを一気に解放したら、みだれる。だから、押さえながら、解放する。この宇宙の原理も、そうなっているはずである。

 

 

 カーボンナノチューブ、綺麗に均質に解繊したら、そこに、綺麗な網目構造ができる。ネットワークである。乱したら、それが、壊れる。導電性も、強度も、熱伝導も、その機能が顕在化する。何十年前に日本で見つけられた素材も、粉砕され、破壊され、その性能が顕在化しない。韓国や中国に取られ、日本から、カーボンナノチューブの光が消えようとしている。

 

 

 そして、さらに、CNTは、黒鉛によって解繊され、黒鉛もまたCNTによって剥離される。そういう技術が、ゆらぎの中から生まれた。黒鉛は、地中に眠っている。宇宙の時空のなかで、単層カーボンの面が地下で圧縮されている。それが黒鉛である。それをはがしていけば、グラフェンになる。グラフェン、それ自体は何も機能しない。解繊されたCNTと複合材となるから、機能する。廉価なCNTとさらに廉価な黒鉛を混ぜて、装置を通す。黒鉛の層間にCNTがはいり、黒鉛が剥離され、その剥離された面で、CNTもまた解繊される。まさしく、夢のような素材が廉価で生まれようとしている。黒鉛の縦の面が機能すれば、CNTによって導電性はUPし、黒鉛の縦の面が、熱伝導性を押さえる。それこそが、熱電素子、熱から電気を生む素材となり、また、面状の効率のいいヒーターとなる。地下に眠る熱と地上面との温度差で、電気が生まれる。地震、火山大国の日本が、再び、黄金の輝きを取り戻す時になる。

 

 

 すべては、ゆらぎから生まれる。この宇宙、何かが揺らいだから、それが引きがねとなって、生まれたとみている。この世の森羅万象は、時空を含め、何かの因果関係で、お互いのありようが関連付けられている。100万年の過去も、100万年後の未来も、ビックバーンが生まれた時も、気の遠くなるような未来も、そして、この一瞬も、すべてが、何かと関連付けられている。きっと、どこかの時空で、与作が木を切っていることだと思う。ヘイヘイホーと、ゆらぎながら、時空のはざまから聞こえてくるようである。