”秋山なお”の美粒ブログ

”秋山なお”の美粒ブログ

音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

 今は、非常に便利になった。スマホやタブレットがあれば、星座の位置を確認できる。月や惑星まで、アプリに反映される。だから、時間を合わせれば、スマホに写る星座と惑星と月の位置が、現実の夜空に瞬く光と符合する。今日は、8月6日、77年前、広島に原爆が投下された日である。星座アプリで確認したが、なんと、1945年8月6日は、新月、月がでていない日、そして、8月7日の深夜2時ごろから、火星や金星が、東の空から登ってくる。当時の広島の朝は晴天、そして、ピカドンが落とされ、きのこ雲が起き、黒い雨がふった。夜の天気はどうか定かではないが、たぶん、晴れていただろう。そうなれば、1945年8月6日の夜9時ごろ、今日は、月が見えるが、当時は、月明かりのない、ほぼ同じ星座群が頭上に見えたはずである。原爆で、あたり一面には、明かりひとつない、闇である。あるとすれば、救護のための火明かりがともっていたはずである。被ばくから12時間後、想像できない地獄図が広島に展開されていたはずである。地上にのこる熱で、雲が出ていたかもしれないが、それでも、星は見えていたはずである。

 

 

 頭上には、白鳥座のテネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルが、夏の三角形を形成している。こと座のベガとわし座のアルタイルとの間に天の川があり、その天の川の中を、白鳥座が、飛ぶように横たわっている。天の川とは、銀河である。我々は、銀河の端にいる。天の川をみることは、銀河の中心を見つめていることになる。天の川がみえるなら、白鳥座から、南のほうへ視点を下げていけば、そこに、さそり座の赤星、アンタレスがみえる。そして、西の方に、目をやれば、大熊座の北斗七星が見える。その柄杓の先端をおえば、そこに北極星があり、その逆の柄の方を追っていけば、1等星のうしつかい座のアークトゥルスそれを更に、右下におっていくと、そこに、おとめざのスピカがある。それが、春の大曲線と呼ばれる星座群である。みな、殆どが1等星だから、晴れていたら、都会でも、ネオンを遮ったら、見えるはずである。

 

 

 光速は秒速30万kmである。だから、宇宙から発する光は、過去の光である。白鳥座のテネブは約1400光年、1400年前の光が今、届いている。私が生きている間に発した光は、うしつかい座のアークトゥルスのものである。37年前に発した光である。もし、アークトゥルスが突然消滅しても、我々には、37年後でないと、それが分からない。もちろん、大前提は、光を光として認識できる観測者があってのことである。もし、人類がだれもいなくなり、この世に、観測者がだれもいなくなれば、光など、何も意味をなさない。

 

 

 今でも、私は、ときどき、目をつぶり、白杖をもって、部屋を歩いている。それほど広くないが、それでも、ドアが二つある。結構、幅は、狭い空間である。もちろん、その空間になにがあって、どうなっているかは記憶している。視覚がなければ、白杖だけが、前に歩けるツールとなる。何のためにやるのか、それは、戒めのためである。当たり前のことを当たり前と思えることへの戒めである。視覚だけでなく、聴覚、運動機能、様々なことがある。当たり前にあることが当たり前でないことを認識する。人は、すべて、自分の判断基準でものごとをみる。自分が問題ないとみれば、問題があると見る人を、おかしいと判断する。なぜなら、その気持ちを体験していないからである。

 

 

 むかし、15歳の時、長期入院をした。当時の医療のレベルから判断すれば、絶対安静である。今なら、長期入院も必要もなかったであろう。しかし、50年前の医療である。病院の窓から見える風景、その窓から、普通に歩く人の姿が見えた。その当たり前が、どれほど貴重におもったか、今でも、その感覚が残っている。だから、気持ちのいい朝、歩けるということがどれほど、素晴らしいかわかっている。しかし、世の中には、歩けない人もいる。

 

 

 何かの因果で、障害を持った人がいる。それは、事故か病気か、外的、内的を問わないが、何かの要因でそうなった。つまり、世の中の何かと相互作用をおこし、その因子が顕在化したということである。その結果が、今のあり様である。殆どの人は、見えていないが、人間だれでも、もっている因子がある。それが、老化、死への因子である。それが顕在化するのが、50歳以降である。その分水嶺が47歳とみている。事故を除いて、55歳で亡くなる人、60歳で亡くなる人がいる。70歳、80歳、90歳、100歳、そして、同年代で生まれた人は誰もいなくなる。自分が何歳でなくなるかなど、亡くなるまで分からないものである。余談だが、あの日、安倍元首相自身、自分が死ぬとは、その数分前までわかっていない。意気揚々とマイクをもって、自説を述べていた。すべては結果論である。ある意味、結果からすれば、あそこで殺されるために、それまで生きていたという事になる。

 

 

 話が脱線したが、やはり、主題の対象者は、若者である。若者は、人生の経験が少ないから、判断基準もまた少ない。その判断基準がほしいから、何かしらの判断基準を外部に求めようとする。もし、人類がいなければ、宗教などない。世の中に自分ひとりしかいなければ、外部からの情報など入るわけがない。宗教の本質とは、一体何か、それは、自分にとって、生きる上で都合がいいものと思えるものかどうかである。その宗教の判断基準を受け入れた方が、自分にとって、都合がいいと思え、しかも、最後まで生きやすくなるとおもえば、それを信じて生きた方がいい。そして、そのことで、他人に迷惑をかけないのであればそれはそれでいいのである。その信仰を絶対的な真理と思うことで、自分の生がより生きやすくなるのであえば、それは、それでいいのである。

 

 

 しかし、自分にとって都合がいいものは、必ずしも、他人にとって都合がいいとは限らない。自分がおいしいと思っても、他人はまずい、不快と思う事もある。世の中とは、そういうものだと、若者は認識したほうがいい。それを前提として、残りの膨大な人生をどうするかは、若者は、自分で決めるしかない。人生とは、経験である。その経験が充たされて、自分の判断でものごとが言える。それができるのは、すくなくとも、60歳を過ぎてからである。しかし、その人のいうのも、あくまでも相対論でしかない。自分にとって、本当のことは、その人が死ぬ直前にならないとわからない。

 

 

 基本的に、世の中は、自分ひとりと外の世界の二つしかない。一対多である。その多の中に、自分と同じ自我をもった人がたくさんいるという構図である。神への視点はこの場合、3つしかない。自分の中に神がいると判断する場合、多の中に神がいると判断する場合、一対多を含めたところに神がいると判断する場合である。人それぞれの判断だからわからない。私は、本当に、神はいると信じている。神がいなければ、この世の因果がなりたたないと思っている。もちろん、神はいつでも沈黙する。祈りは空しいが、しかし、美しい行為であると感じている。

 

 

 光速が有限である以上、人の命もまた有限である。人は自分で自分を支配しているように思うが、そうではない。やはり、人間としての機能や本能がある。そのひとつが生殖機能である。かならず、ある年齢に達すれば、人は性を求める。それが自然である。そうして、結婚し、子供を育てる。自分の我意を追求できるのは、そこまでである。そこまで、徹底的に、自分をみつめ、徹底的に、学問を学び、徹底的に、自分の視野を広げるべきである。若者にのこされている時間は限られている。何をするのかは、今の手持ちにある知識と経験をもとに判断するしかない。今の世の中、学歴社会である。すくなくとも、社会人として、経験則がいきてくるのは33歳以降である。職人として、技能職としていきるのなら、それを磨いた方がいい。状況が許せるなら、無難に生きたいとおもうなら、勉強して、それなりの大学へいったほうがいい。学歴は、ずっと、残る。これからは、わからないが、今まではそうである。

 

 

 若者は、悩む。生命力があるから悩み苦しむ。自分と世の中の距離が短いから、よけい悩む。それが当たりまえである。客観的に世の中をみろといっても無理である。やらないことは分からない。車を運転するのに、車にのって練習しなければ運転ができないのと同じである。やったら、そこに相互作用がおき、内面にある何かが顕在化する。それによって、経験則がすこしづつ形成される。経験がないからわからないといって、すべて、結論を先送りにしていたら、何も生まれない。モラトリアムで人生が終わってしまう。ずるずる結論を先延ばししていったら、人生のエンドになる。時間は無限にはない、有限だから、人生は選択なのである。選択し、深堀し、その道のプロになれ。自分と世の中の距離がわからなくなったら、夜空の星座をながめたらいい。星座の星の瞬きは一律ではない。近い星、遠い星、そのあり様は無限に近い。行き詰ったら、星座をみるのがいい。星に願いをかけるのもいいが、星もやはり沈黙する。思いを実現するなら、行動を起こすしかない。やって、だめなら、またかんがえたらいい。

 千円ちょっとで、コンパクトに収納できる白杖を通販でかった。目が不自由になったということではない。普通の人には必要ないものである。私は、若い時、目の不自由な人と知り合いになった。年をとってから、何かの病気で失明したらしい。その人の娯楽は、ラジオであった。私は、その人が外に出かけるとき、ときどき、アテンドをした。内臓疾患や精神疾患は別として、私として、一番つらい障害をあげるとすれば、視覚障害だと思っている。聴覚、肢体障害等、どれもつらいだろうが、やはり、視覚を奪われるのが、一番つらいことだと、思っている。

 

 

 目をつぶる。まっすぐに歩けない。10秒目を閉じてあるくのが精一杯である。障害物にぶつかると感じるからである。外で、白杖をもって、白昼、目を閉じて歩くことは、やはり、できない。そうしてもいいのだが、やはり、そこまでの根性はない。だから、狭い空間だが、会社の端から端まで、目をつぶり、白杖をもって、時々歩く。杖を当てる感覚に神経がいく。その空間が頭に入っているから、数回やれば、問題なく目を閉じたまま移動はできる。

 

 

 視覚を通して、色々な情報が入ってくる。視覚を通して、人は空間を認識する。しかし、視覚が停止されれば、空間の識別がわからない。東京にいようが、大阪にいようが、関係がない。識別できるのは、その本人と触覚と聴覚と皮膚感覚が作用できる範囲にいる人だけである。そして、その場にある匂いと光の濃淡、風の強弱だけである。そして、その人の内部にある己と生きようとする力である。

 

 

 視覚を遮断して、ギターがどこまで、弾けるか、チャレンジしている。世の中には盲目のピアニスト、盲目のギターリストがいる。素晴らしい魂の発情である。生きている事をその楽器の波動に乗せている。自分の思いを、それで発信している。感じられているのは、聴覚や皮膚感覚くる人の熱気の揺らぎである。視覚がなければ、他の感覚で補うしか方法がない。コードチェンジは、視覚がなくてもできる。しかし、単音引きは、難しい。これも一つの人生の修行だと思っている。

 

 

 見られている自分が分からない。視覚がないから、自分がどのような画像として人に受け止められているか分からない。そこに、虚栄はない。自分がどんな風袋であろうが、他人がどういう風にそれを感じるか、分からないからである。視覚からとらえられる美しさがわからないからである。そこに、鏡があっても、そこに写る自分の姿を識別することができない。見えないものはどうしようもない。どう映ろうと関係がない。それが、本来の姿である。人に見られる自分を意識して、その幻想におびえる必要もない。見えるものなら、見てみたいとおもうだろうなと思う。瞑想は、基本的に、視覚の遮断から生まれる。視覚から生まれる迷いや幻想や虚栄も、視覚がなければ、空相である。

 

 

 人は、いつか、亡くなる。体の機能と脳の機能も、ともに、おちていけば、飛行機のテールランプが自然と視界から消えていくような感じである。そうであれば、一番いい。それが、涅槃への道である。物質は宇宙へと拡散していく。心に宿り、意識を形成する光量子は、この世から消滅して、この宇宙の外側にあるところへ遷移する。神の世界なのか、仏の世界なのか分からない。この世を支配する二つの原理、エネルギー保存の法則と、光速一定の原理、それがこの世から見える森羅万象のあり様である。この世からパット消滅したものは、それと同等、パット新たにこの世に生成する。消滅と生成の繰り返しである。また、光速を越えるものがないから、この世を包み込む何かが、この世に圧をかけている証拠でもある。もし、光速を越えて無限大の速度なら、この宇宙は一瞬で、爆発して、破壊され、消滅している。そこに、時間など生まれない。

 

 

 我々の内部は謎だらけ、なぜ、そうなっているのか、誰も分からない。すべては、結果から判断される。何かの病気の因子がある。それが、だれにあるのかわからない。外にあるものと何かの状態で相互作用を起こす。人によっては、何も起きないこともあれば、人によっては、病気が発症することもある。一番いいのは、何も病気など起きずに、そのまま一生を終えることだ。しかし、そうでない人もいる。初めから因果関係が分かっていれば、特効薬ができている。それは、なってみないと分からない。しかし、人間の体は再現性がよくできている。私には、潜在的な病気因子、ネフローゼというものがある。何かのきっかけで、症状がでる。尿に蛋白がでる。しかし、ステロイドを飲むと、二週間ぐらいで、陰性にもどる。100%、戻る。ネフローゼは、子供の病気、不安定な時期に発症しやすい。ただ、幸いなのは、ステロイドが効いて、元にもどるものなら、再発しても、またステロイドを投与すれば、元に戻る可能性が非常に高いということである。

 

 

 世の中には、難病がある。発病した時点で、弾性域からすでに塑性域に移行している病気もある。そうなったら、10年以内に、大体、亡くなる。どうすることもできない。もちろん、世の中には、奇跡もある。しかし、奇跡のように見えるものは、もともと、そうなるようにできていたもので、我々にはそれが見えていなかったということである。

 

 

 もし、何かに迷ったり、苦しんだり、悩んだりしたら、白杖を買って、視覚障碍者の気持ちになったらいい。点字ブロックが敷かれていない道、ほとんどがそんな道だが、そこを、保護者なしで、ひとりで、白杖をもって、歩けるかどうか、トライしたらいい。目をあけて、空間を認識できて、生きれることが、どんなにすごいことかわかるはずである。生きられることが、どれほど、貴重なことかわかるはずである。むかし、盲導犬の育成の基金活動に参加したことがある。点字ブロックのないみち、音声案内のない横断歩道、視覚障碍者にとって、厳しい環境である。賢い盲導犬がいてくれたら、いいのだが、それにもそれなりの資金がかかる。いかがわしいところに、税金をつかって、無駄に捨てるよりは、盲導犬育成に金をかけた方が、よほど、世のため、人のためになる。子供にとって、何が重要なのかは、盲導犬に連れられて社会参加する人とのふれあいであり、そういう人がいることで、子供の心に起きる思いやりの心を育成することである。

 アコースチックギターは、安いものは数千円で買える。しかし、よほど、地方の大きな一軒家にすまない限り、現代の居住空間で、まともな神経をもっていたら、なかなか、じゃかじゃかとは、弾けない。そういう意味では、エレキギターは、響かせる空間域がないので、練習するにはいいが、やはり、物足りない。別に、ヤマハから、お金をもらっているわけではないし、本業での接点もないから、よいしょする必要性もないが、客観的にみて、サイレントギターは、やはりいい。軽いし、音がしない。ピックをもって、じゃかじゃかやっても、気にしない。値段は6万ぐらいはするが、費用対効果は十分である。スマホのドラムビートの音をギターに取り込んで、ヘッドホンで、そのリズムに合わせて、ジャカジャカする音を聞くことができる。ドラムビートは、タイムが自在であるから、それがメトロノーム機能と同じになる。早いうちから、拍に合わせて、コードを鳴らす訓練をするほうがいい。

 

 いずれにしても、ギターの中で最大の難関は、コードFである。コードFでの指の位置を覚え、試行錯誤すれば、Fの音を鳴らすことは可能である。しかし、結構、時間がかかる。人によるが、数か月単位ではなく、習得するには、年単位の練習は必要になる。慣れてくれば、だんだんとコツがわかってくるが、そのコツを指摘しないと、永遠に理解しない。うまく弾けるひとは、それを意識してやっている。ギター教室で、先生の指導を受けない限り、ここまでわからない。

 

 下記のスライドを見てほしい。これはヤマハのサイレントギターと私の指と腕との関係である。手は、小さいし、指の長さも短い。指が短いから、ギターの弦を押さえるには、不利である。しかし、通常使われるコードに対しては、問題はない。しかし、どんな曲でも、必ずでてくるのが、コードFである。ここを、ある程度、押さえないと、ギターの面白さはでてこない。

 

 写真は、コードを押さえて、右手にスマホをもって、うつしたものである。コードFというよりは、バレーコードをした時の角度と見た方がいい。赤字で囲まれた角度である。印刷して、それを分度器で測ると、ぴったりその角度になる。その角度は、結果から導き出されたものである。

 

 角度40度は、C やGである。つまり、小指や薬指が、5,6弦を押さえるから、そういう角度になる。他は、大体、30度ぐらいで収まる。なぜ、コードFが難しいかといえば、手首を包み込むようにして、まげないと、押さえられないからである。その角度が25度になるには、腕を曲げないで、左手を左側に曲げないとその角度にはならない。曲げた状態で手を上にあげる。それが、コードF時の腕の恰好である。そして、常にコードチャンジの時に、コードFの支点になるのが、中指の位置である。3弦、2フレット、ラの位置にくる。それが、無意識に移動できないと、コードチャンジはできない。(下記のスライドをじっくりと見ていただけたらいい。)

 

 コードFへ移行する前のコードは、ほとんど、G、C、Am、Em、Dm である。一番簡単なのは、Dm-Fである。なぜなら、中指の位置が同じだからである。一番難しいのが、Gである。Gの時、中指は6弦にある。したがって、二つしたへ移行しなければならないし、腕とネックとの角度も40度から25度に変えなければならない。瞬時にコードチャンジをしなければならないとき、GからFは、一番しんどいということになる。

 

 コードFを練習するのに、最適なのは、最初にCをならして、その後、GとFを適当にまぜて、その3つをアトランダムに弾くことである。ピックをもってもいいし、フィンガーストロークでもいい。つぎに、Em、Am、Dmを加えてもいい。簡単なように見えても、なかなか難しい。Fがそこそこ、弾けるようになり、右手でのピックをもってのストロークができ、キチンとリズムにあうと、殆どの人がその音に、立ち止まる。

 

 ギター、時に、コードストロークは、左手首と指の運動に他ならない。それに、右手でのピックでの動き、慣れてくると、右手は、殆ど、リズムとの反応になる。つまり、右手には、意識はない。強弱がでるのは、リズムに感情が入るときだけである。

 

 もし、還暦をすぎて、定年後に、ギターを始めるのなら、この形、角度から、コードの位置を把握するのがいい。たとえ、エキストラライト弦を使っても、指先の腹で弦を押さえると、痛くなる。深く爪をきって、その指先の腹が固くならないと、途中で嫌になってくる。人生の中で、左指先に力をいれることなどないはずである。だから、ギターをやるのなら、できるだけ早いうちにやった方がいい。

 

 余談だが、コード理論が実践を通してわかってくると、作曲のやり方が分かってくる。こんなに簡単なんだというのが、わかる。コードチャンジには、著作権がないから、ヒットしたコードチャンジをそのままコピーして、後は、そのコードに対して、適当にメロディを思いつくまま、書いていくと、それなりの曲ができる。自分の心情や若者の情感を言葉でつづり、それを、歌ったら、この時代なら、共感する人が出てくる。きちんとコードFのコードチャンジができるようになったら、歌うことだ。歌詞の内容次第で、それなりのお金が入る可能性がある。もし、それで受けても、長いことやらないほうがいい。情報過多の時代であれば、ますます、熱しやすく冷めやすくなる。基本的、シンガーソングライターで、歌で差別化できるとすれば、それは詩の内容である。もし、詩人の才があるなら、ギターをやって、コード理論を学び、音(メロデー)と声で、詩をつくり、発表した方がいい。昔は、SNSもないし、ネットもない。だから、紙に詩を書いて、それを路上で売っていた。フォークソングはそういう集会から、生まれてきた。今は、ネットの世界である。情報は音と映像である。音声でながすよりも、楽器を弾きながら、歌うすがたを映像化したほうが、その映像の波動も、音に乗る。詩人として、自分の内面の心象風景をかたり、それと共鳴する人を求めるなら、今なら、そういう努力をしたほうがいい。人生としての重さが違ってくる。サイレントギターは乾電池でもアンプ機能がでてくる。Ipadにつなげれば、そこから、音がでる。ガレッジバンドを利用すれば、リズムもでる。

 

 人生は不可逆的なもの、流れた時を戻すことはできない。だから、もう、若者に戻れないが、もし、感受性がつよく、この世のあり様に傷ついているのなら、その思いを詩に託し、音に乗せることだ。その目標に対して、頑張ることだ。そこまで、考えられるなら、その更に上を目指した方がいい。思いを、英語に乗せて、日本人として、世界に発信することだ。英語と日本語の違いは、音節構造である。歌は、原則、一音節に対して、一音符、日本語も英語も中国語も韓国語も同じである。発音よりも、音節の方が重要である。音楽は数学である。コード理論は数学でもある。数学と英語をやっていれば、どんな難関大学も入学できる。青春で輝けるときは、限られている。自分の人生をどのように輝かせるのも自分のアクションしだいである。がんばれ、わかもの。

 

 世の中の変化率をσ(シグマ)とすれば、σ=△E(エネルギー)/△t(時間)ということになるかもしれない。どれだけ短い間に、エネルギーがどれだけ変化したか、である。そして、その変化率σが時間に対して、どう変化していくのか、それが、世の中の推移となる。その時間の中で、元に状態に戻るものと、元の状態に戻らないものがある。元に戻るものが可逆的なもの、元にもどれない、一方通行が、不可逆的なものとなる。残念だが、人生は、不可逆的なものである。あの時失敗したから、あの時の状態に戻れればいい、それが出来たら最高である。パソコンのように、過去にさかのぼって、やり直しができればいい。しかし、人生はそうならない。少なくとも、覆水盆に返らず、死者の魂はすくなくとも、この世ではよみがえらない。

 

 

 人が突然、亡くなれば、そこが空洞化する。徐々に減衰していって、切れるならいい。ジェット機のテールランプが、徐々に視界から消えてなくなるならいい。しかし、強く輝いてきた光が突然、消えたら、その電球の強い光に群がったものは、行き場を失う。突然、消えたら、そこに負のエネルギーが乱れることになる。負の世界が突然、現れたら、それを打ち消すように、何かが覆い隠す。死者の魂は、黄泉の世界へと吸い取られることになる。

 

 

 ネットをみれば、安倍元首相の残像が、つよく残っている。日本の風習として、死者の魂を冒涜することはNGである。それが、生きのこったものの、死者に対してのマナーでもある。死刑執行後、死刑囚の痕跡は、浄化される。はじめっから、何もなかったように、初期化される。

 

 

 ずっと、安倍元首相に寄り添っていた人は、対象喪失を感じる。強い自我で人を引き付けた人だから、突然、この世から消えたら、その現実を受け入れられるまで、時間がかかる。その間、その人の残像が見えるはずである。そうして、その残像が消えて、現実を受け入れた時。ものすごい対象喪失感がつなみのように襲ってくる。クリスマス、正月、何気ない休日の夕暮れ時、夕餉の香りが漂う時、対象喪失感は、夜霧のように忍び込む。それは、愛する人を失った人が抱く思いである。それも、突然、命を絶たれた場合、そう感じる。災害、事件、事故、自殺、いずれにしても、突然、命が消えられたら、それを受け止められない。減衰していくのならいい。その準備ができるからである。

 

 

 強いカリスマをもったリーダーが突然、いなくなれば、そのグループは、求心力をうしなうから、かならず、分散していく。そうして、バラバラにになって、小グループになっていく。それが、また、再編されていくのかもしれない。歴史をみれば、そういうプロセスが起こるのが予想される。覆水盆に返らず、死者は蘇らない。そして、歴史は繰り返すことになる。

 

 

 安倍首相を殺害した山上容疑者、殺人は許容できないが、報道されている彼の人生をみれば、ある意味、壮絶といったほうがいい。彼の人生の後半は、旧統一教会との闘いであったようだ。人を救うべき宗教が、人をマインドコントロールし、人から財産をかすめ取る集団に成り下がるのであるから、他のまともな宗教団体からみれば、その集団は、とんでもない邪宗門ということなる。今の法体系からみれば、殺人は許されないが、その教団を成敗しようと思う山上容疑者の気持ちは正義だったかもしれない。もし、時代が江戸時代で、そのような教団が現れ、山上容疑者のような人がでてきたら、中村主水のような闇の仕掛け人で、教団のトップは、切られていただろう。

 

 

 安倍元首相も、まさか、自分が、旧統一教会がらみで、殺されるとは思ってもいない。政治がらみで、暗殺されることは、あると感じていたかもしれない。だから、安倍元首相のようなVIPをネガティブに思う団体、個人、その周辺の人物まで、チェックされていたはずである。公安やSPも、そういう人たちの情報は共有されていたはずである。もし、山上容疑者が事前にマークされていたら、山上容疑者は、安倍元首相の近くにはいけない。至近距離までいけて、実際に手製の銃で、狙撃できて、死去させたのであるから、完全にノーマーク、そこに、安倍元首相にも警備の人にも、油断とおごりがあったはずである。すべては、結果である。

 

 

 人は、可能性を持って生きている。一年先など、誰も分からない。しかし、未来は過去と現在の延長線上にあるのは事実である。今と昨日との変化、今と一か月前の変化、今と一年前の変化、それぞれの変化した状態をσ(シグマ)とすれば、未来の変化は、F(σ)であれば、△σ/△tとの関連性で示される。そうして、人生、最後、どういう状態で、どういう風に死んだかで、その人の一生がそこで、一つに収束される。一つに収束されるのであるから、そこで初めて、それがその人の運命だったということになる。それが確定した現実であるから、どうにもならない。

 

 

 100人いたら、100人、幸せはできないだろう。でも、宗教団体とすれば、100人いたら、その8割、80人以上が、死んだときに、いい教えだったと思わせなければ、それは、まともな教理とはいえない。

 

 

 殺人は、肯定できないが、山上容疑者の執念はすごい。そこまで、ひとりで、目的を完遂させたのであるから、ある意味、神業といってもいい。すさまじい怨念である。あの瞬間、一発目の銃声を聞き、何か不穏を感じ取った安倍元首相が、後ろを振り向いた瞬間、銃口とそれを抱える山上容疑者を見たはずである。まさに、その瞬間、安倍元首相の運命がどっちに向くかきまったのである。生もあったし、死もあったし、ケガもあった。周りにSPもいる。当然に、山上容疑者も外す可能性がある。人生とは残酷である。結果からすれば、安倍元首相のそれまでの人生は、その状況へ導かれるようになっていたということになるし、山上容疑者もまた、同じである。二つの人生の因果がこの一点で交錯した。山上容疑者は、引き金を引き、二発目の銃弾が飛んだ。その0.05秒後、安倍元首相は被弾した。あたり具合では、生還できたかもしれない。しかし、結果は、即死状態である。覆水盆に返らず、死者は蘇らない。安倍元首相のあの強力なエゴと自意識は、虚空をさまよっているのか、闇に消滅したのか、誰も分からない。たぶん、親近者の心の中で、思い出の中で生き続けるだろう。しかし、その親近者の人もいつか死ぬ。そうして、この世を知る人は、いつか、誰もいなくなる。それが、我々が判断できる遠い遠い遠い未来におとづれるこの世の姿でもある

 手製の2段銃、報道によると、一発の玉に、6個の弾丸が仕込まれていたということである。考え方としては、クラスター爆弾に近い。弾丸が発射さえれば、その中に収納された6個の弾丸が、計算された範囲の中に飛び散る。一発では、外す可能性がある。6個なら、そのどれかが、致命傷を負わせることができる。しかし、それも、可能性だけで、100%、しとめるという事はない。

 

 

 すべては、結果から、その因果は収束される。目的は、安倍元首相の暗殺、殺すということであった。その結果は、どうであったか、目的が完遂されたということである。普通は、こんなことは起きない。目的が完遂される確率は非常にすくない。しかし、現実的に起こった。あり得ないことが起きたといってもいい。

 

 

 私も、安倍元首相が、打たれる直前までのビデオをみた。一発目の銃声が響いた。白い煙が上がった。安倍元首相は、それに気づかない。まわりがざわつくから、後ろを振り向いた。たぶん、その後の映像もあるのだろうが、公共の場では流せないものなのだろう。その後、倒れた。そうなると、一発目は、空砲だったと思っている。そこで、銃弾が仕込まれていたら、誰かにあたって、悲鳴が起こる。パニックとなる。安倍元首相にも、命中したのかもしれないが、かれは、それをしなかった。一発目で、弾丸がでれば、SPや警護人が、安倍元首相をかばう。そして、SPが瞬発的に動き、捕獲される。その可能性があったからしなかったのだろう。ビデオをみれば、空砲に近い、安倍元首相の周りで倒れた人はいない。聴衆も、騒いでいない。周りは、予期しないできごとに、何が起きたかわからなかった。警護人もそうだろう。山上容疑者は、安倍元首相を振り向かせたかったのである。正面に向けば、被弾させる可能性が高くなる。そう、考えたのだろう。実際に命中したのだから、安倍元首相と手製の銃口とが直線に並んだのだろう。「天は見方した」そう、山上容疑者は思ったかもしれない。その一瞬、ためらいもなく、引き金を引いた。10mなら、0.05秒ぐらいで命中する。

 

 

 その結果を導き出した因果とは、それが、山上容疑者がいっている動機である。ある宗教団体に家族が滅茶苦茶にされた。(ネットでは、その名称が明らかにされていた。)安倍元首相がそれと関わっていたから、殺害したという事になっている。本当のターゲットは、その宗教団体の幹部であったはずであるが、彼の中では、安倍元首相とその教祖が同一と考える何かがあったのであろう。それは分からないが、そう感じたから、安倍元首相を殺害したということになる。

 

 

 結果は、殺人ということで、許すことができない。しかし、この山上容疑者の執念は、ものすごいものがある。たぶん、その宗教団体の幹部よりは、ものすごい、パワーをもっているといってもいい。現実的に、ある意味、不可能なことを可能にして、現実化させたのであるから、奇跡を生んだといってもいい。

 

 

 安倍元首相の殺害を、誰の力も借りず、何もかも自分ひとりで、考えて、実行したのである。拳銃も、銃弾も、火薬の調合も、なにもかも、ひとりで考え、調達し、しかも、自分で作ったのである。それで、重要警護人を、警護がつく中で、それを実行して、成就させたのである。それと、私が、驚嘆していることがひとつある。それは、想像だが、拳銃の部材を、すべて、百均かホームセンターで仕入れていることである。個人事業主や企業経営者なら、多少資金があるだろう。だから、精度を要求する部材は、外部に頼むことになる。しかし、山上容疑者は、外部に出せない。それに資金も潤沢にはないだろう。すべての部材、化学品も、すべて汎用品から選んで作り上げた。工具もホームセンターで調達して、自分で、部材を作り上げたのだろう。だから、最終仕上げが、黒の絶縁体テープでぐるぐる巻きしてあった。人殺しは、良くない。しかし、そのものを作る根性に対しては、その職人的根性に対しては、称賛する。きっと、その技法は、自衛官時代に習得したものだろう。もし、自衛官のままいられたら、それなりの地位を得たであろう。人殺しという蛮行に及ばなかったかもしれない。

 

 

 しかし、この執念は、ある意味、神掛かっているといってもいい。普通ではありえない。そして、普通なら、手製の拳銃を忍ばせて、安倍元首相の至近距離までくることはできない。それは、何を意味しているか、完全に、ノーマークだったからである。まったく、危険人物と判断されてなく、善良な市民と認識されていたのである。なぜ、そうなるか、すべて、ひとりでやったからである。普通は、何か、過激なことをしようとしていたら、どこかで、情報がもれる。政治的な目的があれば、その危険度の情報は警察内部で共有される。奈良県警も馬鹿ではない。ちゃんと不審者の動きはチェックしていたはずである。選挙中であるから、できるだけ、政治家の意向をくんでいた。ものものしい警備では、親近感がでないからである。しかし、すべては結果である。安倍元首相が警備中に、殺害されたのであるから、大失態ということになる。結果に対して、言い訳はできない。

 

 

 山上容疑者は、殺人罪で起訴される。100%実刑である。これだけ、注目をあつめれば、公判も非公開はできない。マスコミや一般傍聴人が詰めかける。ネットも情報であふれかえるはずである。たぶん、山上容疑者は、その公判調書の中で、犯行に至った動機を述べるはずである。山上容疑者の真の目的は、そこにある。巨大な宗教法人に対して、一匹の虫けらが挑んだ感じである。普通なら、何をいっても、門前ばらい、踏みつけられてお終いである。安倍元首相を殺害したから注目が集まる。裁判では、安倍元首相とその宗教団体との関連性も、調べられるであろう。動機が、その宗教団体への恨みで、犯行が、安倍元首相の殺害であるから、その因果関係が明確にならなければ、審議は進まない。痛くもない腹を探られるから、関係者や利害関係者は、関わりたくない。しかし、それがあぶりだされるはずである。それが、マスコミのネタとなる。巨大な力の中で、虫けらのようにつぶされていった人の私怨が噴き出し、何かが変わるかもしれない。もちろん、何も変わらないかもしれない。

 

 

 もし、これが、政治目的のテロなら、大変である。しかし、これは、一人をねらった殺人事件である。これが、安倍元首相の政治理念等に関わるものなら、大変である。しかし、これはあくまでも、安倍元首相の個人的な事由での関わりである。政教分離であるので、安倍元首相が宗教法人ともし関わってるのなら、それはあくまでも、個人的な事由での関わりである。山上容疑者は、その関わりを、強いものと判断したから、安倍元首相を殺害したのである。山上容疑者の中で、その関わりが許せないと思わせるぐらいのものだったのだろう。いずれにしても、安倍元首相は、生き返らない。宗教がらみの殺人事案である。非常にセンシティブな問題である。

 手製の銃で、41歳の男が、選挙応援の演説をしている安倍元首相を打った。結果的に2発目の玉が、安倍元総理にあたり、血液循環器系を破損させた。その結果、応急処理、大学へ搬送されての集中治療の甲斐もなく、被弾から数時間後に死亡確認された。犯人はその場で、殺人未遂罪として、現行犯逮捕され、身柄を拘束された。犯人は、特定の宗教団体に恨みがあり、その宗教団体と関係がある安倍元総理を狙ったと、供述しているようである。

 

 

 私は安倍元首相にあったこともないから、直接、その肉声を聞いたこともない。一国民からすれば、テレビで、自説をのべる、自我の強い政治家のひとりとしか見ていない。総理大臣を退任すれば、単なる山口県選出の衆議院議員の一人という事になる。私よりも、数歳年配のじいさん予備軍の一人という事になる。

 

 

 私が、思ったのは、人生には、こんな幕切れがあるのか、と思ったことである。安倍元首相は、潰瘍性大腸炎が持病だと、聞いている。大体、難病というのは、免疫疾患である。殆どの場合、ステロイドを投与する。少量でも、飲んでいた可能性がある。ステロイドの副作用は、ステロイドハイになることである。精神が高揚する場合がある。潰瘍性大腸炎の再発で、二度も総理大臣をやめたのであるから、ステロイドの服用に関しては、神経を使っていたはずである。長期ステロイド服用であれば、副作用も気になる。これは本人しか分からないストレスであったはずである。それに、打ち勝って、総理大臣の激務を続けてきたのだから、それはそれで、すごいことだと思っている。当然に、17歳の時から、病気の因子を内在して生きているから、自我の向こうに何かがあると思うのが自然である。病に克己して、50年以上生きている以上、それだけの自我を形成し、自分を守らないと、生きていけないはずである。自我の強い政治家として、外部に見せる自分と、病に苦しむ内面の自分とのギャップがあったはずである。きっと、安倍元首相の内面を知っている人は、安倍シンパになるはずである。知らなければ、なんだこの、我の強いじじいということになる。

 

 

 加害者の山上容疑者、41歳、無職ということは、フリーター、嘗て、期限付きの自衛官、爆弾や拳銃をつくることが、ひとつの生きがいとなっていた。だれでもが。うまくいきたいと思う。就職して、結婚して、家庭をもつ。できれば子供をもって育てたい。そうして、老後をまつ。だれでもが、そう考える一般的な夢である。しかし、それがかなわない。彼が選んだ道は、他者否定である。なぜか、その恨みの矛先が、安倍元首相になったということである。論理の飛躍であるが、彼がそうおもって、それを実践したのだから、仕方がない。報道によれば、色々な有用な資格を持っていた。拳銃や爆弾も自家製、当然に銃弾も自分で作ったのだろう。相当、加工精度がないと、殺傷などできない。自爆する可能性がある。もし、若い時に、いい人に出会っていたら、宗教への道ではなく、人生への道を導いてくれる人と出会っていたら、それだけの能力があれば、幸せな家庭を得られたはずである。それだけのものがつくれるのなら、宗教を隠れ蓑とする人間のエゴを同時に見抜けたのかもしれない。もちろん、本当にいい人もいる。残念だが、彼の周辺に現れた宗教家は、ろくでもない人間だったということになる。それにしても、それだけのものがあれば、他に転用すれば、こんな殺人者になることもなかったはずである。

 

 

 それにしても、人生の幕切れとは、こんなに、淡くあっけないものなのかと思う。普通では、総理大臣経験者、超大物政治家の背後3mに近づけるわけがない。手荷物から、何かを取り出して、安倍元首相に向ける。それもあり得ない。普通なら、取り押さえられている。一発、発射した。安倍元首相は演説をとめない、爆音が襲ってきたから、振り向いただけである。二発目の銃弾が飛んでくるのに数秒あった。その間に、危険を察して、かがませるなり、横におして、銃口からそらせたら、致命傷にならなかった。後遺症はのこったかもしれないが、生き続けることはできた。すべては、結果論である。死んだら、お終い。67歳、政治家としては、後10年は、政界をコントロールできたかもしれない。死んだら、お終い。あまりにもあっけない強制終了である。

 

 

 安倍元首相には、その日がくるとは、その瞬間まで思っていない。だから、死への準備もなにもない。一発目の銃声後、安倍元首相は、音がした方へ振り向いた。きっと、その時、犯人と犯人がもっている凶器を見たはずである。その一瞬、死を感じたはずである。感じたと思った瞬間に、次の銃弾が飛び出した。そこから、意識は朦朧としたはずである。安倍元首相は、ガードレールに崩れ落ちたと記載されている。死へ急降下である。安倍元首相がそこで何をみたか、何を感じたかは、分からない。あまりにも一瞬だから、それも見えなかったかもしれない。多量の出血で、意識がぱっと消えかかる瞬間に、何をおもったのか、それもわからない。

 

 

 自分がなくなる数秒前まで、自分の運命がどうなのか分からなかった。亡くなる日の朝、何気なく、いつものように目覚めたはずである。自分がその日に銃撃されてなくなるとは、考えてはいない。なにか嫌な予感がよぎったかもしれないが、それも分からない。そして、交通機関をつかって、奈良までいく。ずっと、警護がついているから、何かあるとはおもっていない。病気は、薬でなんとかなる。急に、倒れてなくなるような病気ではない。だから、自分がその数時間後死ぬとは、全く予想できなかったはずである。しかし、現実的に、安倍元首相は死んだ。それは事実である。

 

 

 人生にはこんな幕切れもあるのだと、つくづく再認識した。たぶん、確率的には非常にすくない。ある意味、偶然と偶然が重ならない限り起きない。道をあるいていたら、ビルの上から人が落ちてきて、その巻き沿いで人がなくなる、そのぐらいの確率である。

 

 

 山上容疑者、殺人罪で起訴される。無期懲役だろう、しかし、20年ぐらいしたら、仮釈放

されるかもしれない。それでも61歳である。山上容疑者、俺の人生、なんだったのかときっと思うだろう。もし、今回、殺害を成就できなければ、次をねらうだろうか、たぶん、このような街頭応援演説がなければ、山上容疑者と安倍元首相が遭遇する機会もなかったであろう。神様は本当に無慈悲なめぐり合わせを行う。人生には、こんな幕切れがあるとは、思ってもみなかった。冥福を祈ることしかできない。

 幕末、黒船がやってきて、日本の政治は一変した。巨大な官僚機構の江戸幕藩体制を崩壊させるには、ものすごいエネルギーが必要だった。当然に、その幕藩体制に乗る人もいれば、反体制側にいる人もいる。しかし、崩壊への道へ進ませたのが、黒船である。どれだけの人の命が失われたかである。そして、明治時代、時はまさに、富国強兵である。これを支えたのが、庶民である。女工哀史など、いまでは死語になるだろうが、それらの貧しい人々によって、国は栄えた。その頂点が、戦艦大和である。しかし、そこに立ちむかってきたのが、やはりアメリカである。最後は、どうなったか、広島、長崎に投下された原子爆弾である。日本は、吹っ飛んだ。無条件降伏である。一面、焼け野原である。そして、復興である。日本にのこったのが、戦前につくられた軍国主義の残骸である。明治維新後、日本人が作り上げた遺品が焼け野原の中に放置された状態であった。復員兵、学徒出陣から戻ってきた学生、バラック小屋からの復興である。貧しいから、そこらへんにあるものを利用する。底辺には、戦艦大和。ゼロ戦を作った技術、技巧があった。女子学生でも、銃後をまもるため、戦時下、旋盤を使い、武器を作ってきた。一億総職人で、戦時物資を作り上げた。木っ端微塵にアメリカにされても、日本人が生きている以上、そこに、職人の魂は残った。

 

 

 戦後19年かけて、日本は復興をとげた。新幹線を通し、東京オリンピックを成し遂げたのである。それを支えたのが、日本の職人文化である。日本の中小企業、零細企業である。今を時めく戦後に生まれた大会社でも、当初は、どこも零細企業である。零細企業が中小企業となり、大企業となった。高度成長時代であれば、いいものをつくれば、需要があったから、どこでも大きくなれた。総合商社がそれをバックアップした。銀行も資金援助した。右肩あがりのインフレ経済である。中小企業が大企業となり、上場すれば、町工場のおやじが、だれでも、億万長者で、企業のトップとなった。汗水働いた結果、莫大な金が入ってきた。中小企業のオーナーだった人々は、連日、飲めや歌えやの大宴会である。それに群がる提灯持ちも多数いた。しかし、そんなバカ騒ぎも長く続くわけがない。当然に。その絶頂が、バブル崩壊で崩れた。

 

 

 そして、IT革命の波に乗り損ねた。なぜなら、日本は、GNPで世界2位と、浮かれすぎたからである。豊かになりすぎたからである。その後、日本人は、戦後、焼け野原から築き上げた先人の遺産を食いつぶして生きてきた。貧しさを忘れれば、新しいものを生み出さない。今あるもので充分、その資産を食いつぶしている状態であれば、無理することもない。歌う事を忘れたカナリアの運命はどうなるか、これが、今の日本である。給料はあがらない。資産は目減りする。少子高齢化で、どんどん人口が減少する。50年後は、8千万にもみたないだろう。当然に、今の大学生がリタイアするころ、日本はどうなっているのかである。

 

 

 日本が没落するきっかけとなったのが、中国の躍進である。中国が躍動するきっかけとなったのが、鄧小平氏が権力闘争に打ち勝ったからである。毛沢東路線との決別である。鄧小平氏は、共産主義に資本主義を取り入れた。個人主義の塊の中国人を一つに、利権でまとめ上げた。開放政策である。黒猫も白猫もねずみを取る猫はいい猫と、言ってのけた。海外資本を受け入れたのである。もうければ、善、豊かになれば、善、政治と経済を分けたのである。その意思表示は、天安門事件で、現れた。自由化を求める学生を軍隊で鎮圧した。

 

 

 経済は開放しても、政治は一党独裁で抑えたのである。政治の自由を与えなかったが、経済の自由は与えたのである。金である。当然に、頭のいい中国人は、海外の技術をコピーした。中国がWTOに加盟後、中国市場は自由化された。当然に、富は日本から中国へ流れる。日本が貧しくなるにつれ、中国は豊かになるのは当然である。この30年で、日本はすたれたが、その代わり中国は繁栄した。30年前は、中国のエリートが訪日団として、日本にやってきた。今では、観光目的で日本にやってきて、中国人が稼いだ外貨を日本で落とすようになった。内需は支えられた。

 

 

 立場が逆転した。私が、若い時、最初に北京にいったとき、百貨店では、化粧品を測りうりしていた。王府井の公衆トイレには、扉などなかった。紙などなかったから、縄が引かれていた。殆どの人が自転車にのり、一生懸命動いていた。きっと、日本の昭和30年代の初めのころと同じだったと想像する。だから、中国が伸びて当然である。安かろう悪かろうだったが、今ではしっかりとしている。アマゾンで購入するもの、殆どが中国製である。うまく作ってある。コストからみて、何も文句を言えるものではない。

 

 

 中国に、政治的な自由はない。あるのは、儲ける自由である。束縛から自由になるため、起業を起こす。もうけて、もうけて、この国から、出ていく。それが、彼らの人生となる。一党独裁だから、共産党以外は、権力は実質とれない。中国は、血縁、個人主義、三国志の時代から、変わらない。当然に、裏金が有効な手段である。しかし、体制は崩れない。香港で行き過ぎた自由化運動があれば、天安門事件と同じように、制圧する。しかし、経済は止めない。コロナがでたら、巨大都市、上海をロックダウンする。上海をロックダウンさせても、もう中国は、だめになることはない。暴動がおきても、すぐに鎮圧する。

 

 

 日本民族としては、情けないが、戦争で、アメリカにまけ、経済戦争では、中国に負けた。アメリカと中国は表裏一体の関係である。どこかで、必ず、歯止めがかかる。それが、民族性である。まともにやって、日本人が、アメリカ人に勝てるとは思えないし、中国人にまけるとは思わないが、ただ、国力をみれば、中国は圧倒的優位な立場にある。意思決定は、迅速である。でなければ、この30年間の進歩の速度は、考えられない。中国では、国益のためなら、バラック小屋を一日でつぶし、数か月で高層ビル群にする。当初は完璧でない、失敗もある。ビルが崩れる。原因がわかる。すこしずつ改良されていく。全体のために個を犠牲にするが、実はその個も裏では金でつながっている。一党独裁のように見えても、どこかで、三国志の世界が今でも生きている。50年後の世界は50年後にやってくる。50歳以降の人は、50年後にはほとんどいない。地政学的にどうなっているかである。

 

 

 日本が伸びるときは、いつの世でも、混乱期である。太平の世では、何もしない。現生利得であるから、あえて、リスクなどとらない。しかし、現状でいけば、どこかで、もたなくなる。いずれにしても、世界はどんどんかわるから、それに対処して、人生設計をしていたほうがいい。これから、自動翻訳機がでてくる。すくなくとも、中国語と英語の発音方法だけは、学んでいたほうがいい。自動翻訳機から流れる音声を認識できるくらいの素養はひつようとなる。

 この世がどんな因果で動いているのかわからない。私は、私が生まれる以前の事はしらないし、いつかおとずれる死の後のことも分からない。ただ、与えられた生の時間の中で、変化しているのはわかる。渦潮のようなもの、台風のようなもの、ある意味、風のようなものかもしれない。それは、一つの揺らぎが重なったようなもの。時がくれば、元の状態にもどるようなもの。風が、樹木を通る。葉がゆらぐ。小枝に、風鈴をつるせば、風の強弱が音の強弱にかわる。風鈴がなれば、風が吹いているのだとわかる。時間がうごく。しかし、時間という物理量は明確ではない。昔、太陽を地球が一周するのが、一年として、それを基準とした。それは、あくまで、人間が作り出したものにすぎない。あくまでも、人間の都合ですべてがつくられている。しかし、明確なものがなくでも、わかるものがある。それが、ゆらぎである。すべてが、ある範囲の中で、生成と消滅を繰り返しているということである。そうして、すこしつづ、その範囲が狭まっていき、どこかで、生命が維持できなくなり、命が消えるということである。

 

 

 この世には、何かの因果がながれいる。その中で、我々、ひとりひとりが、その因果と相互作用している。あるがままに受け止める人もいれば、それに強く反応するひともいる。反応の仕方は千差万別である。ひとりひとり、どのように反応するかなど、だれもわからない。それも、状況に応じてかわるし、ひとり、ひとり、変化の仕方がちがうから、その結果がどうなるのかもわからない。すべてが、今の結果で判断するしか意味がない。今、成功している人がいたとする。もし、今が、78年前まえなら、今、成功している人は、役にたたない非国民と言われているかもしれない。たまたま、1945年8月6日に、広島中心部にいたならば、原爆に見舞われていたかもしれない。今、粗行があらくて、どうにもならないと言われている人も、78年前、戦場にいたなら、英雄とたたえられたかもしれない。人の一生の評価も、周りの状況次第で、変わる。昔は許されていたことも、今では、アウトということもある。

 

 

 我々にできることは、自分が得てきたことを、誰かに、伝えていくということである。両親が、子供に伝えること、他のだれかに伝えることも、それに含まれる。どんな些細なことであっても、それが、ひとつの相互作用となる。全体としては、何もかわらないかもしれない。しかし、微細な部分では、必ず、変化が生じている。どんなものでも、生成と消滅を繰り返すが、その繰り返す模様が変わるのである。マクロは変わらない。誤差の範囲と見えるだろう。しかし、ミクロの範囲では必ず、何かを働きかければ、どんな些細なことでも、それが、ミクロの範囲では変化する。その出現の可能性が変化する。それが、ハイゼンベルグが見つけ出した不確定性原理でもある。位置と運動量は同時にはわからない。時間とエネルギーも同時には決まらないということ。つまり、この世は、1+1=2ではなく、1+1=1.999999、その9がものすごくたくさんあるという世界である。マクロでは確定しているように見えることでも、その一つ一つは、誤差を含んでいる、常に不確定なことだということである。人類13億人、その全体は何も変わらないようでも、ひとり、ひとりをみれば、不確定ということになる。だから、誰にでも、やり方によってはチャンスがあるということ。うまく、YOUTUBEで、動画をつくって、UPしたら、それで億万長者、株で、うまいこと回りして、億万長者となる人もいる。もちろん、そうならず、失敗して、負債を抱え込む人もいる。

 

 

 人が生きるということは、たとえ、自閉で誰とも口をきかなくても、その人が生きているそれ自体で、必ずこの世と相互作用を起こしている。たとえ、死産や中絶でこの世に生まれなくても、そのことが、必ず、この世と関係をもつことになる。100%、母体がそれを認識するからである。

 

 

 自分ができることは伝えておくこと。未来がどうなるかなど、だれも分からない。来年の今、自分が100%生きていられるかなど、だれも分からない。健康な人も、どんな事件に巻き込まれるか分からない。巨大地震がおきて、ぽっくりといくことも考えられる。50歳以降、死ぬ確率は毎年上がっている。50歳の人が一年生きられる確率と99歳の人が一年生きられる確率は明らかにちがう。そう、人は、どこかで、ぽっくりといく。だから、慌てない事である。それを受け止めるしか方法論がない。病気になったら、なったまでで、どうにもならない。ならないように予防していても、結果としてなったのなら、それを受け止めるしか方法論がない。元にもどるように、するしかない。

 

 

 私が、伝えなければならないのは、世の中、無理をすれば、壊れるということ。それが、乱れである。どこまでやれば、乱れるかなど、わからない。しかし、乱れが続いたら、かならず、壊れる。元に戻れるような部位が壊れるだけならいい。元にもどる方法論があるからである。しかし、元にもどらなかったら、自律的に復元不可になってしまう。

 

 

 長く生きている人をみたらいい。必ず、自制している。特に、50歳以降は、健康に気を付けている。50代や60代で、病で死んでいく芸能人がいる。金があるから、酒をたくさんのむ。肝臓や膵臓を痛める。もったいない限りである。10年、20年、現役でいられたはずである。

 権力者は、不老不死を願った。ぞして、己の権力が、己の死後もこの世に及ぶことを願った。権力の誇示として、巨大な墓や神殿をつくり、そこに、祟りの幻想を蜘蛛の巣のように張りめぐらした。権力者の思いが、己の死後も永遠につづくことを念じた。しかし、その思いも、消されていく。新たな権力者がそれを打ち砕くからである。権力者の我欲が薄められ、祟りも浄化され、残された墓や神殿は、遺跡として、残ることになる。

 

 

 物事には、何かしらの因果がある。因果とは、時間における変化でもある。その変化させた力、それが因果である。その中には、原因と結果が、我々にも分かるものと分からないものがある。理解できるものは、それを制御することができる。その変化自体を変えることができる。もうひとつは、理解できないもの、わからないものである。つまり、抗うことが不可能な力によって、ものごとが変化することである。それが、不可抗力である。

 

 

 原因がわからずに、結果が生まれる。つまり、見えない何かの作用によって、何かの結果が生まれるということ。そうなれば、もはや、抗うことなどできない。その結果を受け止めるしか方法がない。泣いて、結果が変わるなら、わめいて、結果が変わるなら、そうしたらいい。しかし、一度の人生において、それが自分の身におきたなら、どうしようもない。どうしようもないことは、受け止めるしかない。それが難病であり、最後は、誰の身にも起きる人の死である。現状は、120歳を超えて生きることは不可ということである。

 

 

 我々には、この宇宙が、なぜ、生まれたのか分からない。そのあとのことは、何とか、説明ができる。しかし、これからの未来はどうなるか分からない。わかる範囲は、我々が今、正しいと思っている論理が及ぶところまでである。なぜなら、すべてに対して、不確定性的な誤差が生じるからである。その誤差が無秩序に拡大すれば、気の遠くなるような無限に近い未来が、どうなるのか、誰にもわからない。過去も分からない、未来も分からない、その不確定な今という時間を我々は生きている。不可抗力という力に対して、抗って生きているのである。そして、いずれは、力尽きて、消滅していく。

 

 

 我々、ひとりひとり、どんな内部情報をもって生まれてきたのか分からない。DNAに書かれた因子がどのように、作用するのか、誰もわからない。ただ、時間軸の中で、この世の何かと作用することで、その因子が顕在化する。たとえば、病気という因子、突然、昨日まで正常に複製していた細胞が、今日、おかしな細胞を作り出す。体内の制御系は、狂いだす。何も悪いことをしていないのに、病気が発病する。原因と結果がわかっていればいい。それなら、薬が効く。原因を排除して、元の状態にもどせばいいだけである。後は、体内の制御系が正常に機能しだす。しかし、そうでないものがある。何かをやって、元にもどればいい。治るという結果が導かれればいい。ひとつひとつの事例の積みかさねが、ひとつの治療の道筋となる。それが、わかればいい。難病の場合、その因果関係がみえない。だから、ステロイドを投与して、どうなるか見る。進行性の速いがんになったら、どうにもならない。死期は早まる。それも、残念だが、不可抗力なのである。

 

 

 この世は、我々が理解しえない、我々のロジックを超越した何かの力で動いている。我々にはどうにもならないから、我々はそれを不可抗力と呼んでいるにすぎない。なぜなら、私が死んでも、この世は動くからである。もし、地球上から、生命が消えても、この世は動いている。ビックバーン発生時の瞬間、すべては火の玉の中に集約されていた。だから、生命がなくても、何かの因果によって、この世は動いていることになる。それが、何なのか、誰も分からないし、永遠に分からない。観察する存在がいなければ、物事は、好き勝手に動き回る。まるで百鬼夜行である。自分の背後に。色んなものが揺らいでいる。振り返ったその瞬間、それを観察した瞬間に、すべてが収縮し、すべてが、この世の闇にもどる。また、前を向いたら、背後に百鬼夜行が、踊りだす。そんなイメージでもある。死者の魂もそうであることを願うだけである。

 

 

 人間の思い、強い思いも、ひとつのエネルギーである。エネルギー保存の法則を考えれば、そのエネルギーは普遍のはずである。この世の因果を変えるものではないが、すくなくとも、不可抗力に対して、無視できる範囲であるが、それでも確実にそれと相互作用は起こす。それが、生きようとする力である。不可抗力に対して抗う力となる。そう、私は感じている。

 

 人間、誰でも、己があるから、主観ではなす。客観的なデータを報告するにしろ、人が介在すれば、そこに必ず、己がはいる。内心は己が入ることを否定していても、それが雰囲気でわかるし、肯定ならそれが表面に現れる。だから、35歳の人は、35歳までの経験値をベースにして話すし、65歳なら、65歳のベースで話す。本来なら、65歳の人の方が、より多くの情報をもち、より機知にとんだ話をできるのだが、老化と周りへの気遣いで、抑圧されてしまう。長としての権威づけが、乏しくなれば、必然と、隠居ということになる。

 

 

 人生は一回きり、どんなことがあっても、過去は変えられない。しかし、変えられることは、ある。それは、今からである。誰でも、失敗はあるし、人に騙されることもあるし、何かの拍子に病に倒れることもある。それが起きてしまったら、どうにもならない。少なくとも、何か、芳しくない状態になったら、まず、現状復帰、もとあった状態に戻す事である。完璧な状態ではなくとも、現状、おかれた状況下で、最良な状態に復帰させることである。病に倒れて、何か後遺症が残る。死ぬよりは、いいはずでる。何かのアクシデントで、障害をもつこともある。それが、現状、最良なリカバリーなら、それを受け入れて、そこから、再出発ということになる。倒れたら、倒されたら、起き上がり、再び、生きることである。

 

 

 50歳、ひとつの人生の分水嶺である。それから、その人の持っている生命力と運にしたがって、寿命がきまる。50歳から、100歳まで、リニアでさがる。平均は単純で、75歳となる。いろいろと、人生、振り返ると、人生の運、不運は、人間の誠実さと実直さが結構支配するような気がする。最後まで残る人、最後まで、仕事で生き残れる人は、仕事ができるのは当然とするなら、実直さが、競争に打ち勝つ一つのファクターである。なぜなら、生き残りは、落とされる人がいるから、生き残れるのである。5人の内、一人だけ、役員になれるとする。その時、一人を決めるのでなく、4人を落とすことで一人が決まるのである。仕事の差などで、優劣があるだろうが、最後は、実直さできまる。俺が、俺が、と主張したり、低姿勢のようなふりをしているが、何か胡散臭さを示す人、そういう人は、落とされる。

 

 

 結果がすべてである。結果とは、過去の因果が現在に現れていることである。どんな屁理屈を並べても、今の結果がすべてである。それが、満足すべきもの、受け入れられるものでないにしても、今の状態がそれであれば、それが、今のすべてなのである。誰かのせいにしても意味がない。もちろん、その因果は相手にも向かうから、そうさせた人にはそれなりの因果が待ち受けている。しかし、自分だけをみれば、それが、すべてである。未来はどうなるか分からない。よく、未来が不安だから、どうしようと、今を悩む人がいる。私も内在的にネフローゼという再発因子を持って生きている。人間50歳を過ぎれば、いつ、ぽっくりといってもおかしくない。だから、再発したら、どうしようと、悩んでも意味はない。もちろん、神経質にはなるし、ならないように注意はする。しかし、なったら、なったまでの事なのである。使われていない未来を、不安で委縮させ、未来における可能性を自ら狭くする必要はないのである。

 

 

 若い人にあるのは可能性である。経験はない。だから、中学卒業後、高校卒業後、または、高等専門学校で、技量を学べば、それが経験となるが、それ以外で、大学を卒業して、社会人になれば、社会人での経験はない。そごで、選別されるのが、学歴である。それが事実である。しかし、それが、仕事や技量での経験値に抜かれるのは、10年以内で起きる。もちろん、高学歴で仕事もできて、人柄もいいひとも沢山いる。しかし、それと同じ数だけ、ろくでもない人がいる。最後まで、生き残る人は、結局、実直に、仕事の経験を積んでそれなりの結果を残せた人である。そして、重要なのは、人に恨まれる数が少ないことである。人をだまして、のし上がった人は、最後は、人にだまされ、その場から引き釣り降ろされる。人を地獄に突き落とした人は、いつか、自分が地獄に突き落とされることになる。

 

 

 二代目、三代目、親の資産を継承してトップになる人は、くれぐれも自省していた方がいい。まわりは、かならず、おだてる。自分ではそのつもりはなくても、必ず、横柄になる。二代目は特に、先代を抜こうと、無理をする。人から必ず恨みを買う。どうすることもできない因果を引き受ける。社内では、いつも、息子と言われる。社内で、気を許せる相手ができない。ずばりと、否定してくる人を、無意識につぶしにかかる。

 

 

 この場合も結果がすべてである。もちろん、そうならない場合もある。世の中には、人の心の痛みを感受できる能力をもった人もいるからである。横柄の態度の前に、いたわりの言葉が先に出てくる人もいるからである。上に立つ人ほど、腰が低い人が多い。しかし、仕事はできる。新しいことを創造する力ももっている。世の中は、ろくでもない人がいるが、それと同じ数だけ、素晴らしい人もいるのである。いい人はいいし、悪い人はわるい。たとえ、環境に恵まれなくても、実直に頑張れば、見ている人は見ているし、わかる人はわかる。今の時代、情報は、開かれている。昔のように、悪い情報にいい情報が埋没することはない。埋没しそうになったら、頭をつかって、世に出せばいいのである。いいものなら、必ずわかる人が出てくる。

 

 

 だから、ブラック企業に、運悪くさまよいこんだら、ろくでもない上司に理不尽なことを要求されたら、それに耐える価値が見出せなかったら、さっさとやめた方がいい。私は、日本人で、日本語がきちんとはなせて、社会のマナーを守れる人なら、能力の差などないとみている。後は、その人の潜在的にもっている能力をどう活かせるかどうかにかかっている。好きこそ、ものの上手なり、それは、今でも当たっている。仕事をしていても、おもしろくないものは、その人にあっていない。仕事をしていて、面白いと感じられるものが、正解なのである。それでも、苦しい状況が続くなら、場所を変えることである。東京がだめなら、大阪があるさ、大阪がだめなら、名古屋があるさ、なのである。人の縁など、どうなるかわからない。東京で人に裏切られて、福岡にいったら、いい人にであって、人生救われた、そういう話はいくらでもある。福岡でなくても、札幌でも、新潟でも、金沢でも、広島でも、鹿児島でも同じである。もちろん、ニューヨークでも、パリでも、ミラノでも、ロンドンでも同じである。真剣にまじめに生きていれば、捨てる人、裏切る人がいれば、拾う人、助ける人もいる。最後まで、頑張って生きるのがいい。