組織の中に組み込まれると、人は、その組織のひとつの歯車として動かされる。もちろん、その組織も、ひとり、ひとりの集合体であり、その組織の動きを決めるのは、ひとりのカリスマで動くような組織でなければ、その組織の雰囲気、その場を支配するような人々の気持ちである。それが、不合理であっても、それが、客観的にみて、おかしいとわかっていても、全体の流れができてしまえれば、それに誰もが従うようになる。勝てるとは思っていなくても、太平洋戦争に突入した日本、大本営がその例である。広島、長崎に原爆が落とされ、無条件降伏を受け入れなければ、東京に原爆が落とされる。そうなれば、国体もあったものではない。聖都は、焼け野原、一億総玉砕と叫んでも、玉砕する人もいなくなる。そのぐらいにならないと、戦争は終結しなかった。一度、動いたものは、なかなか、止まらない。慣性の法則が働いた。それから、まだ79年しかたっていない。
仮に、組織のトップになっても、いつか、終わりがくる。定年を迎える。組織の決まり事がある。そうなれば、次のトップがでてくる。組織にはいり、組織で守られ、そして、組織から卒業を迎える。その時に、その人に何が残っているのか? 組織の看板がなければ、何もできないのでは、しょうがない。仮に、組織の中にいれば、すべてが他力本願、他力本願どおしで、共通の組織の利益という共同幻想の上に、自分の人生が成立している。65歳で、組織からでる。これは約束事。その後、何年、生きているのか、少子高齢化、これは現実、だから、だんだんと、年金は先細りする。年金は、現役世代が、高齢者を支えるという仕組みである。その現役世代がへっているのだから、高齢者に分配するお金も、だんだんと減っていく。だから、年金受給年齢を引き上げる。老後資金も自分で稼げということになる。少子高齢化は事実であるから、かならず、そうなる。それか、移民を増やし、この国に、税金をはらってもらい、公的年金資金の原資にするしかない。そして、高収入の人から、税金をとる。累進課税を昔以上に、強化しなければ、いずれ、破綻する。
いずれ、誰もが、組織から、追われる日を迎える。他力本願で生きてきたから、自力で何かすることができない。商売をするなら、すべて、自己完結性がなければ、どうにもならない。自分に技術があっても、それを具現化するには、だれか、特殊な人の支えがいるなら、それは自己完結性とはいえない。その特殊の人のサポートが途切れたら、その事業も終わりになるからである。もちろん、自分ひとりでは、自己完結性はできない。しかし、部品は、汎用性、後の加工は、どこでもできる。つまり、資金さえあれば、自己完結性が成立するならば、それでいい。だれか、特定の人に急所を握られていたら、その人が、さよならをいったら、それで、その事業はおわる。組織であれば、代わりの人がいるから大丈夫だが、零細企業であれば、命とりである。よく、ベンチャー企業である話は、2人で起業した、しかし、意見があわず、ひとりが、離職する。大体、技術系の人が辞めるだろう。そうなれば、残った人では立ち行かない。大体、破綻する。
自己完結性のループに、誰か他人の行為(意思)が入っていたら、そこでそのループは壊れていることになる。最初は、一緒にやっていこう、と大抵はいう。しかし、十人中八人は、自己本位である。そのうち、なんで、こいつのために、俺がやらなければならないのか、という気持ちがでてくる。そうなれば、必ず、別れる。そうなれば、そのビジネスは、終わる。その他人がいなくなっても、自分だけでも、自己完結性が保たれるようにしないと、これからは生きていけない。利害がでてくれば、必ず、人間のエゴがでてくる。自分でできるように、たとえ、自分ひとりになっても、事業が存続できるように、しておかなければならない。これが鉄則である。それができなければ、独立など、してはいけない。
私の本業は、微粒化装置の開発である。今でいえば、CNTやグラフェン製造である。圧力も100Mpaをかけて、CNTを壊さず解繊する技術である。これは、全部、自分でつくりあげ、商品化し、メンテまでしている。これから、注目を集めるはずである。すべて、自己完結性のループの中にある。人を入れる必要もない。技術の中枢は、特許で保護されている。もちろん、すべての発明者は自分だけである。当然に、ビズリーチされて、技術流出する懸念もない。必要な部品等は、汎用品だから、発注すれば事が足りる。特殊な部品等は、自分で図面を引き、加工してもらう。ポンプは、アメリカから仕入れたらお終い。必要があれば、自分で部品を設計して、加工屋にだせばいい。専属の所はない、高ければ、安いところに発注しなおせばいい。そこに特殊、専門性はない。つまり、どこにも、急所を握られるところはない。
最近、泡レスDMRという装置をつくった。これもまたおなじ、すべて、汎用部品、後は、自分で設計して、これを作ればいい。組み立ては、自分でもできるものである。プラモデルを作る感覚だから、それはそれで楽しい。そして、実験も自分でやる。自分で作った装置、自分で考案したものの評価を、CNTというものをつかってやる。SWCNTもあれば、MWCNTもある、いろいろある。最近は、黒鉛を同時に剥離して、CNTとグラフェンの複合材もトライしている。それを、自分で評価する。それを、スライド化して、自分の会社のHPにUPする。色んな人がそれを見ている。自分で作ったツールをつかって自分で実験する。見えなかったことが分かってくる。それがまた、ひとつの知見となる。大学や産総研でもみえない、分からない因果関係が見えてくる。必要があれば、あらたな部品をつくる。世界のトップの技術となっている。それを、全部、自分でやって、自分で実験して、自分の手を汚して、そして、ツールを改良する。それが、自己完結性の本質である。だから、新しいものが生まれる。ひとつでも、他力本願が入ったら、そこでビジネスは止まる。
半導体や液晶等の技術が流出したのは、技術を習得した人が、お金と待遇の条件にのって転職したからである。これは、どうにもならない。当然に、技術を転職先で教えても、いずれ、そこでも、用なしとなる。外様はいつまでも外様である。転職した人は、いずれ、いい条件がでれば、また、転職していく。分かり切った道理である。だから、そういう技術者は、渡り職人となり、企業を転々とする。技術革新がうまれて、いずれ完全に用なしとなる。その渡り職人も、その事業がなければ、その技術は不要、お払い箱になるのは、必定となる。
むかし、とあるところから、はしごを外され、ぼろぼろにされたが、それ以前は、化粧品工場ももっていた。自前でつくった装置で化粧品を作っていた。いまでも、その処方等は残っているから、再興しようとおもえば、いつでもできる、しかし、今は、そこまでやる気力はない。そこで、とあるところから、音楽とのコラボレーションとの話があった。曲をつくって、女性二人に歌わせるというものだった。実際に、曲をつくりCD化までやった。大々的にやる直後、体を壊して、延期状態、その後、とあるところから、とんでもないことをやられ、化粧品も中止せざるを得なかった。うまくいっていたら、化粧品もよかったし、そこ女性シンガーも可愛くて歌がうまかったから、時流にのれたかもしれない。これも、ほぼ、自己完結性であった。装置から製造、容器充填、販売、プロモーションまで自前でやった。化粧品製造許可、販売許可も、取得して、やった。だから、化粧品のことは、最初から最後まで、全部理解している。どのくらいの原価なのか、その中身もわかっている。化粧品は面白かったが、これは宗教団体の勧誘とおなじだから、それなりの組織がいる。自己完結性がないと、いかがわしい人たちに、騙される。
そんな関係で、音楽との関わりがあった。当然に趣味の一環だが、そうなると自己完結性の癖が出てくる。曲は作れるとなれば、今度は、自分で、弾き語りで歌いたくなる。ギターを習得することになる。もちろん、曲をつくれば、編曲も必要、DTMを学ぶことになる。音楽の協和理論と、本業の分散理論とが重なった。それをやっていると、YOUTUBEにUPしたくなった。歌を録音する。今は、パソコンがあれば、基材は安いものである。時間ができれば、復活してやりたいと思っている。これも、すべて、自己完結性である。だれか、他の人に頼む必要もない。すべて、自分ができる範囲の中で物事を遂行する。
世の中で失敗する人の例は、大体、こんなはずではなかったということである。他人任せにすると、ひどい目にあう。大体、最初は、下手にでて、甘い言葉で誘い込む。そうして、罠にはまって、取り込む。釣った魚にエサをやらない、そうして、そこから、利益がでないとわかると、ぽいすてする。のたれ死しようが、どうなろうか、知ったことではないという態度をとる。もちろん、そうならないケースもある。仮に、どうなろうと、自己完結性のもの、それに市場価値があるものなら、やり直しは可能である。世の中、だました奴も、また、だれかに騙されて、ひどい目にあう。
むかし、はしごをはずされ、どん底に落とした会社、最後にその関係を清算するときに、その会社にいった。その会社の役員が、私にいった。本音をいったのだろう、“選んだ相手がわるかったね”である。これが、世の中である。企業人として、最低の言葉である。たぶん、それが、本音、それは、その人自身にも当てはまる。自分が選んだ会社、それがどんなことをしたのか、好きでやったわけではない、自己弁済の言葉でもあった。当然に、過去、私と関わった人は、全員、数年以内にその会社から去った。黒歴史を抹殺したのである。
AI、高速情報化時代、パソコンがあれば、ネットに広がった情報は誰でも取れる。パソコンにオフィスがあれば、高度な計算もできる。分析もできる。数式さえ、打ち込めば、どんな計算もできる。ネット環境があれば、ほとんどの汎用性のあるものは、入手できる。ものは作れるのである。超一流大学の博士も、その肩書だけでは、もう食べていけない。超一流大学の名誉教授が作ったもの、特許もとった。物もできた。それで、膨大な資金も得た。もちろん、量産機が出来なければ意味がない。そういう話は、いくらでもある。大抵は、失敗に終わる。量産ができないからである。実験機レベル、少量スケールなら、できる。しかし、量産になると、だめになる。なぜなら、その大学の名誉教授が全部、自分がつくったものではないからである。自己完結性がないからである。装置など自分ではつくれない。業者まかせ、何かの変数で物が変わっても、その原因がわからない。自己完結性がないから、そこで話が途切れる。本当にいいもので、それができるものなら、もう、できているし、それが一つの常識となっている。それがないのは、できないからである。つまり。まゆつば、ということである。もちろん、だれも、それを、できないとは言わない。それをいったら、詐欺になり、金を返せということになるからである。本当に、世の中を変えるものは、せんみつ、千の中にみっつもあればいいということ。今は、数千万の内に一つあるかどうかである。