井上陽水さんの歌ではないが、人生が二度あれば、この世でいきた経験が次の人生に活かせる。しかし、残念ながら、人生は再現のない一度限りの筋書きのないドラマ。この世は、なにかの因果で支配されているのかもしれないが、残念ながら、その因果は、誰にもわからない。命がどこかでうまれ、そして、自意識が生まれ、自分の置かれている環境(時間と場所と他者との相対的関係)を理解し、そして、時間が経過して、どこかで、消滅する。常に、自分とは、あるものとの相対的な関係でなりたつ。自分は、自分の視点からでないと、自分がわからない。ドラマの脚本家や映画監督、プロデューサーのように、神様の視点で、作中人物を操ることはできない。常に、最終は、自分の主観の判断で物事が決まる。法律、道徳、倫理、きまり、それらは、あくまで、参考資料でしかない。だから、残虐な殺人事件などが起こる。殺人を決定し実行するのは、最終的には、個人の意思なのである。事実、過去に、女子高生コンクリート殺人事件のようなことが起こる。被害者は、命を奪われ、加害者は、それなりの制裁をうける。加害者は、死ぬまで、殺人を犯したものとして、扱われる。
私にも、15歳の時があり、20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、65歳があった。もうすぐ、60代がおわる。後、10年、生きられたら十分かもしれない。いつ、亡くなるのかは、わからない。昨日まで元気だった人が、今日、発作がおきて、そのままなくなることもある。人生、100年というが、それは、ほとんどの人がそこまでいけば、あの世へいくという意味である。後は、確率的に、一年一年、生き延びられるかどうかということになる。
今、20歳の人がいる。その人がわかるのは、自分が歩んだ時間でのあり様である。その時、わかるのは、そこまで、自分と外部との相対的関係がどう変化したか、その変化の状態である。その人が自分の未来を予想できる根拠は、それまでの変化率をベースに考えることしかできない。しかし、それは、不確実なものである。男は女をもとめ、女も男を求める。求愛、結婚、子供、仕事、お金、自分が社会とさらに関われば、その外部との相対的関係性は、ますます、複雑になっていく。すべてが、現在進行形で行われる。親から独立して、家庭をもてば、生計を立てなければならない。生きていくには、働いて、お金を稼がないといけない。労働力の対価として賃金が支払われる。いつしか、人は、その社会的な仕組みの中に、自分の人生を吸い取られる。働かざる者、食うべからずということになる。
老化はどこから始まるか、それは、各年代の死亡率からわかる。不慮の事故死、病死等、各年代、同じような確率でおきる。しかし、あるところから、その死亡率が増えてくる。そして110歳になれば、ほぼ死亡率、100%となる。その変化がおきるのが、大体47歳ー50歳ぐらいである。それまでは、人生は、上り坂という感覚である。未来は永遠に続くものだと錯覚する。しかし、人生の分水嶺は、その年代にある。それからは、実は下り坂なのである。どこで、途切れるかは、確率の問題となる。
65歳、多くの人が定年を迎える。私は、40歳ぐらいから、経営者となった。自分で装置を開発して、それをつくり、いろいろなアプリケーションとの適合性を見た。失敗もあったし、無駄な投資もあった。業務提携をした会社から騙されて、はしごを外されたこともあって、膨大な借金を背負わされた。銀行は、死神のように背後からやってきて、返済を要求する。それでも、運がよかった。世の中は捨てる神あれば拾う神もある。いろんな人から助けられて、奈落の底におちそうなところを、なんとか、おちずに、生き延びた。それが、すべて、経験となった。結局、最終的には、他力本願では、人生は生きていけない。なにごとも、自己完結性が重要になる。それは、なにか仕事をするにしても、他人に急所を握られていて、他人の力がないと、仕事が完結しないようだと、結局、足元をすくわれ、失敗する確率が高くなるということになる。
なぜ、私が生きていられるか、それは、他人の力を借りることなく、自分の力で、ものを、お金をとれるものをつくり、それを販売し、利益を上げられたからである。ひとつのアプリケーションの用途がおわる。そうしたら、次の用途をさがすことになる。全部、自分でやりこなす。機械設計すれば、あとは、それを加工屋にだせば、部品はくる。それを自分で組み立てる。ポンプも発注すればことが足りる。特許も特許事務所にお願いして、提出してもらう。もちろん、発明者は私であり、人様の技術のぱくりでもないし、コピーでもない。結果がでるから、企業は買うことになる。全部、自分ひとりで、できるから、裏切りがおきないのである。もちろん、私、ひとりでできる範囲は限定的である。そうなれば、いろんな人が、支援して、この技術を広めようとしてくれる。結果がでないものを、権威や身分や学識で、ごまかすことは一時できても、長続きはしない。結果がでて、費用対効果があって、複雑でなくシンプルなもの、それが本物であり、そういうものは、継承される。それがイノベーションの本質となる。そういった経験をもつ私からみれば、若者に足りない視点がみえてくる。なにも考えないで、刹那的に時間を浪費していても、65歳時に見える風景は、わびしいものとなると予感する。
定年時、65歳時、自分は、どこにいるのか、想像した方がいい。自分がそれまでいきてきた経験が、それ以降も、社会に必要とされるだろうか、である。会社組織に正規社員としていれば、雇用は守ってくれる。労働の対価として報酬はもらえる。そして、定年を迎える。すべては、需要と供給とのバランス、外部との相対的関係でものごとは動くことになる。社会が、企業が、自分の力、能力、経験を、必要としているかどうかである。必要としなければ、年金や自前の貯蓄で、余生を好きにいきたらいいということになる。そこで初めて、自分が他力本願で生きてきたことを悟る。その時もっている自己の生命の燃料を使いきったところが、その人の終焉となる。なぜなら、そこまで、自己完結性への努力、自力で這い上がろうとする努力を怠って、他力本願でいきてきた可能性があるからである。そういう風に生きてきたつけが回ってくるからである。人生、幸運不運、つきものである。しかし、人生、一度きりとみれば、残酷だが、すべては結果なのである。たとえ、障害を背負っても、それに克己した経験と知恵はやはり、社会にとって、必要な宝となるのである。
人生は順風満帆ではない。余談だが、本当に、私は、とある企業からとんでもない状況に追い込まれた過去がある。いまでも、その会社の役員が最後に私に吐いた言葉が忘れられない。「選んだ相手がわるかったね」、それは、そういう企業だと、見抜けなかった私がまぬけだったということを言っている。もちろん、そういう企業風土だから、その役員も私の事業に関わった人も、数年以内に全員、退社したようだ。だから、どん底に落とされた当時、考えた。どうしたら、安くいいものを作れるのか、金がない、あるのは、残された材料、残された知財、それまでの経験、それまでの人間関係、止まれば、銀行が待ったなしに死神のようにやってくる。月々の返済がやってくる。自己破産などしない、ブラックリストにのらない。考えて、行動を起こして、ものを作り、宣伝をかけ、安くていいものを作る。生活費も得なくてはいけない。納品して壊れたら検収があがらない。金が回収できない。だから、こわれないものを作る。すべて、自分ひとりでやらなければならない。他人に給料を払える金がないからである。追いこまれたから、いいものができる。すべては結果である。結果が今の私を作り上げている。今は、ネットがある。ブラックリストにのらなかったから、法人カードも持てる。今は、ネットでなんでも注文できる。機械部品も材料も実験器具も必要なものはなんでも、手に入る。わからないことは、ネットをみれば何でもわかる。高校生の物理も化学も、ネットで無料で授業をしている。AI検索すれば、大体わかる。専門の大学や大学院で得る情報以上なものがネットに転がっている。そうして、世界のトップの技術者がわからないことも、ここではわかる。なぜなら、ここに、唯一無二のツールがあるからである。現実のものがここにあるからである。材料と用途がなければ、ツールなど、がらくたにすぎない。それに命をともすのが、結果なのである。そこに、需要と費用対効果があれば、商売は、生まれる。商社という業種がある以上、いいものは、つながる。三方よしの考えが成立するのである。
これが、世の中の道理である。だから、実際、私よりも年配者で、企業を引っ張っている人がたくさんいる。そういう人をみていると、とてつもなく苦労をしている。どん底に追い込まれて、そこから這い上がって、がんばる。そういう人は、病気にもなる。しかし、その病にもまけず、頑張っている年配者の方もいる。そういう人は死なない。社会が、この世が、その人を必要として、その人も、それにこたえようと頑張っている。そのエネルギーが、前へと動かしている。
人生、最後のあり様は、それまで得てきた己の才覚で、決まる。努力はかならず実を結ぶ。脇があまければ、かならず、人に付け込まれる。人をだまして、金をかすめる方が楽だかである。だから、詐欺師には、詐欺師なりの体臭がある。しばらく、いっしょにいると、こいつは、うさん臭いやつだとわかってくる。最初はえさをばらまくが、どこかで詐欺の本領を発揮しだす。だいたい、詐欺師同士が集まると、お互い同士、あいつは最低の詐欺師だとののしりあうことになる。
これから、社会は激変する。AIの世界では、膨大な情報が仮想空間にある。プロンプト次第で、いくらでも、数理演算で、情報を好きなように加工してくれる。膨大な計算も、絵も、音楽も、デジタル化されたものであれば、AIの学習機能で、創作ができる。10年後、20年後、ますます、社会は変化している。今、価値あることが、20年後、誰でもできることとなり、今、ある価値ある事が激変していることだろう。つまり、現実社会では、逆に仮想空間では、できないリアルなものが重要になる。たぶん、ロボットのプログラムもAIが自分で学習して、AIが作ることになるはずである。では、何が不足するのか、それは、ものを組み合わせて、つくる世界、仮想空間ではなく、リアルな実在的、物質的なものを作り出す技工、ハンドメイドな世界となるはずである。メンテナンス、整備、試運転、リアルな研究開発等、AIの対極に存在する実存的な価値のあるものが希少価値となる。
スクリーンにかわいい人が映し出される。そして、きれいにしたアンドロイドお嬢さんがそばにいる。そんなところにいても、人は癒されない。銀座や新地で、それらしい女性が、それらしく、傍らにいて、しゃれた大人の会話をする。すけべなおじさんは、鼻のしたをのばし、女性の肩に手を伸ばし、アバンチュールを期待する。アンドロイドの肩に手を伸ばしても、なにも面白くはない。AIにそういうプロンプトで、絵をかけといえば、それらしい画像を提供する。しかし、それをみても、何も興奮しない。
今の20歳の人が、65歳になる時、45年後の世界だろうが、今とまったく違う世界だろうと思う。しかし、リアルな人間社会は昔も今も未来も同じである。人生は再現のない一度きりのドラマである。命を授けられて、自分という自意識がうまれた。なら、最後まで、生きて、授かった命を十分に満喫したほうがいい。そうして、この宇宙の因果の中に消滅したらいい。その消滅するまで、思い切って、いきたらいい。