過去を変えられるのは未来である。未来を変えるのは、今である。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 人生の出口が見えてくると、人生という因果がどんなものなのか見えてくる。何事も運命だと、割り切る人がいるが、それは、結果から見れば、今と過去をつなぐ線は一つになるから、それが運命だったと言われれば、それまでである。誰でも、いつか、死を迎える。その時、その人の人生は、一つに収縮される。死んだ時点で、その人にとって、すべてが運命だったと言える。では、未来は、決まっているのか、たった一つ決まっているのは、いつの日か、死ぬという事だけである。いつ、どのように、どのような状態で、どのような環境下で死ぬなど、決まっていない。だれでも、どのような人でも決まっているのは、いつの日か、死を迎えるという事だけで、後は、何も決まっていない。未来は何も決まっていないのである。それは、すべて、確率の世界で、存在しているに過ぎない。

 

 

 今は、すべて、過去の因果によって縛られている。それは、決定している事実であるから、どうにもならない。どこの家にうまれ、どのような環境で育ち、どのような学歴や病歴があって、どうなったか、その結果が今である。だから、過去をデリートして、再度、過去を生き直すことはできない。過去は否定できない事実なのである。どんなにみじめであったろうが、どんなに不快であろうと、どんなに劣等感にさいなまれても、過去は消せないし、それは、事実として残ることである。問題は今なのである。今が、その人にとって良ければ、それでいいし、未来がさらに良ければそれでいいのである。

 

 

 人は、過去の因果を背負って生きている。過去に失敗した人は、次も失敗するだろうと未来を恐れる。過去の因果が未来を作ることになる。それは、どんなものにも慣性が働くからである。過去の行動が今の行動となり、未来の行動となる。それは、おなじように、生きるのが、惰性となり、それを変えるのに、何かしらのアクションが必要になるからである。だめなら、つぎもだめ、つぎもだめ、人間の行動にも慣性が働くから、そこの因果から抜け出ることができない。

 

 

 未来は何も決まっていない。決まっていなくても、慣性がはたらくから、過去と今を結ぶ延長線上に未来はあるように、思ってしまう。ついていない人は、ついていない人生のまま、何もしなければ、さらに、悪化していく。決まっていない人生をまた、だめだと勝手に思い込む。そうして、時間だけが無為に過ぎて、人生のチャンスを逃していく。それを、運がわるい、それが運命だったといって、自己容認する。勝手に、自分でそう思い込んでいるに過ぎない。

 

 

 未来がどうなるかは、今の行動、今のあり様次第である。今は、決まっている。自分の置かれている環境、状況、そのものである。過去は変えられない。何かしら病気をもっているなら、そういう状態、借金をもっているなら、そういう状態、学力、学歴、知識、経験、人脈、すべて、今、その人のもっている属性、すべてが今となる。もちろん、今という時代もある。戦国時代の世でもなく、戦争中の世でもなく、戦後、昭和、平成の世でもない。今日なら、2024年8月3日という今、自分のあるがままの状態が、自分にとっての今である。自分ひとりでいけているわけではない、家族、友人、恋人、社会的な相対的関係での自分がいる。今は、過去によってつくられている。しかし、それが、未来を決定づけるものではない。すべては、確率の中にあり、明日、どうなるかなど、決まっていない。なにもしなければ、慣性のまま、生きていれば、昨日と今日との関係が今日と明日との関係になるだけである。もちろん、人は永遠に生きられるわけではないから、50過ぎからは、下降していく。人生の分水嶺を追えれば、後は、下っていくだけとなる。それが、下りの慣性である。しかし、本来は、それも決まっているわけではない。

 

 

 人間が他と違うのは、意思を持っている点である。すべては、今である。そう、すべては、一瞬、この一瞬、何をしたらいいかは、その今の一瞬の意思次第なのである。それが行動を生むし、次の行動を誘発させる。重要なのは、未来は、なにも決まっていない、きまっているのは、ただひとつ、いつの日か、MAXの今の年齢からみる余命期間内に、自分の命が消滅するという事だけである。それも、いつ、どこで、どのように、死ぬかなど、誰もわからない。もちろん、明日、大地震が起こり、自分もそこに巻き込まれてぽっくりいくかもしれない。もし、それで亡くなれば、それが、運命だったと、その時言えるのである。すべての人は、死んだら、すべての可能性が0となり、それでその人の人生がひとつに収縮されて、この世から消滅する。生きている限り、意思が存在する。それがある限りは、どんな人でも、未来は存在する。

 

 

 私は過去に7回、ネフローゼ症候群を再発させている。原因は不明だが、尿に蛋白がでてくる病気である。ある程度、蛋白が出だしたなら、その尿中にでる蛋白がとまることはない。もちろん、ほっとけば、尿毒症となり、死ぬ。しかし、私の場合、ステロイドが効く。飲めば、尿中蛋白が陰性となる。後は、ステロイドの量を落とせばいいだけである。なぜか、私の中にその病気を生む因果がある。最初に発病したのが、15歳の時である。17歳、20歳と、再発を繰り返した。当時から、尿蛋白検査紙があって、それを尿につけると、蛋白がでると、黄色から緑色に変色する。なにか、調子がおかしいと、それをつけてみる。黄色なら、正常である。今は、特に問題はないが、もし、それが、緑にすこしでも変色したら、再発ということである。

 

 

 なったら、なったまでである。行きつけの医院にいって、処方できるMAXのステロイドをもらう。一週間ぐらいで、陰性にもどる。それは、それでつらいが、それを否定しても、どうにもならない。それを受け入れて、症状を緩和して、立て直すことしかできない。根性で治るなら、そうするが、私の場合、ステロイドでしか元にもどらない。私の場合には、ステロイドにうまく対応するが、そうでない人もいるのも事実である。もちろん、私よりも若くして、がんや他の病で亡くなった人もいた。人の未来など、分からないものである。

 

 

 人は、不幸なことが重なると、落ち込んでしまう。未来を作るのをあきらめる。今がよくない状況なら、それをまず、改善すべきである。病気なら、それを直すこと、経済的に問題なら、それを改善できるように頑張ることである。そうして、未来を作り変える。過去にどんなに偉大なことをやっても、今、ろくでもなければ、話にならない。過去の業績や栄光で今を生きれる人などいない。それは、過去の遺産を食いつぶしているにすぎない。いずれ、それもなくなり、相手にされなくなる。頭が働くまで、体が動くまで、手足が機能するまで、頑張るべきである。そうして、何か疲れたといって、そのまま、横になり、ぽっくりといく。人生の最後はそれが一番、綺麗である。職場こそ、仕事場こそ、寝室でこそ、そのまま、ぽっくりといく。後は、勝手にしてくれである。それが、最後の最高のわがままとなる。