本日6月15日は弘法大師の生誕を奉祝する降誕会(ごうたんえ)が執り行われました。
これまで降誕会当日に行われていた青葉まつりは、6月第2日曜日に変更されたものの、コロナ禍により2年続けて中止となり極めて残念なことです。
さて、現代では6月15日に大師生誕を盛大にお祝いしますが、近世中頃までは降誕会や青葉まつりという法会・祭事は行われていませんでした。
高野山に伝わる年中行事で最も古くまとまったものに延久4年(1072)『高野雑日記』の「金剛峯寺寺家季中毎月所役不可闕怠事」があります。
それによると正月から12月まで毎月執行していた法会の6月項には「不空遠忌」(ふくうおんき)という記述が確認できます。
「不空遠忌」は弘法大師の師僧 恵果和尚(けいかかしょう)の師僧である天竺僧の不空三蔵(ふくうさんぞう)の忌日に追慕の念を捧げる法会で、江戸後期に編纂の『紀伊続風土記』では御影堂にて執行と記載があります。
つまり6月15日は弘法大師の誕生日であるともに不空三蔵の御命日(唐の大暦9年・774年6月15日)にあたります。これについては後述いたします。
江戸後期 安永7年(1778)の年中行事表には金堂にて大師御誕生会(ごたんじょうえ)を執行したと記録にあるものの、その後明治維新まで御誕生会が継続されたかどうかは定かでありませんが、明治17年の記録では弘法大師誕生法会が執り行われたようです。
但し、この頃は現在の降誕会 会場である大師教会本部大講堂が建設される前なので、明治39年 弘法大師開宗1100年記念法要では6月15日に金剛峯寺で誕生会(たんじょうえ)を行っています。
このように、かつて中世に行われていた不空遠忌は、近世から近代に移り変わるにつれて大師御誕生会へと変遷していったのです。
さて、不空三蔵の忌日が弘法大師の生誕日と述べましたが、弘法大師の師である恵果和尚が入滅した日の夜の出来事がこのように伝わっています。「恵果和尚尚之碑」
唐の永貞元年(805)12月15日に入滅した恵果和尚がその夜、瞑想中の大師の前に現れて述べました。
「汝いまだ知らずや、吾れと汝と宿契の深きことを。多生の中に相い共に誓て密蔵(みつぞう・密教のこと)を弘演(ぐえん)す。彼此代(ひしかわ)るがわる師資と為ること、只の一度のみに非ず。
是の故に汝に遠渉(えんしょう)を勧めて我が深法を授く。受法之に畢(おわ)りぬ。吾が願いも足りぬ。汝は西土(唐国)にて我が足を接す。吾は東生して汝が室に入らん。久しく遅留すること莫れ。吾れ前(さき)に在りて去(い)なん、と」。
上記の文を簡易に言い換えると「空海と私(恵果)は因縁浅からぬ関係にあって、幾世にもわたり互いに師となり弟子となって真言密教を広めてきた間柄である。私は来世は東の国(日本)に生まれかわって空海の弟子となろう」。
幾世にもわたり互いに師となり弟子となって真言密教を広めてきた間柄 ということならば、空海の前世は恵果の師である不空三蔵になります。それ故、空海大師は不空三蔵の再誕ということになりましょう。
時に、唐の大暦9年(774)不空三蔵が入滅したその日、宝亀5年(774)6月15日空海大師が日本に誕生しました。
ここにあらためて、不空三蔵をはじめとする密教伝法の祖師と弘法大師へ報恩の誠を祈ります。
南無八大高祖
南無大師遍照金剛