まことの宗教を嗅ぎ分ける |   荒野に呼ばわる声

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      耳を澄ませば聞こえてくる
                 
                   南山 遥

  まことの宗教を嗅ぎ分ける

 

 ある新興宗教の起こしている寄付行為について、国会の動きが連日報道されている。もっともっと大事な法案審議や立案が有るはずだが、とんでもない宗教に振り回される情けない国会や内閣の動きである。

 

 どんなに立派な法律が決まっても、あくどい連中は、夏草の雑草のように(・・・夏草に例えるは、夏草に悪いが)、刈っても刈っても後から後から出てくる。秋が来て、冬となり、やっと枯れ果てたかと思っても、再び生温かい風が吹くと、芽生えてくる。

 

 今回、問題の中心になる宗教団体は、昔から問題を起こしていた。自分が「再来のキリスト」と自称し、若い優秀な学生たちをマインドコントールし、隣国の苦しんでいる善男善女から金品を巻き上げ、挙句の果ては、最も大事な彼らの「魂」まで盗んでいった。

 これは新しく出来るであろう法律をかいくぐって罪を免れようとするだろう。しかし、人間の目や鼻は騙せても、真実と正義と愛を最も重んじる神は、赦されるされることはない。

 

 だいたい、悪や不義や偽善や偽物は、臭うのである。どんなにその臭いを隠そうとしても、いよいよ悪臭を放つのである。

 本来、日本人の宗教的臭覚は、嗅ぎ分けていたはずなのだが・・・。かまびすしい報道は許されるとしても、今回のうたかたを捉えて、なにが「まことの宗教=道」なのか、静かに考えたいものである。

 

 「神よ、汝は供え物を好みたまわず、

 汝、また燔祭をも喜びたまわず、

 神の求めたもう供え物は、砕けし魂なり。

 神よ、汝は砕けたる悔いし心を軽しめたまわじ」

        旧約聖書・詩篇第51篇   南山 遥