小田原征伐 | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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内藤 飛鳥

内藤飛鳥が出来るまで。
嗚呼納得の逸話。



小田原征伐は豊臣秀吉が天下統一を目前にして関東の北条氏と戦い、

武田信玄や上杉謙信でも落とせなかった難攻不落の城・小田原城。

全国の大名を動員して大軍で包囲した戦ですが、小田原城とはどんな城で、
どのようにして小田原征伐は行われることになったのか?

「一夜城」や「水攻め」など派手な戦法はなぜ行われたのか?
「のぼうの城」で有名な忍城の戦いとは?

小田原征伐はどんな結果に終わったのか?

時に私の大嫌いな秀吉が動員した大軍は空前にして絶後の規模。

陸上からは東海道を豊臣本隊と徳川勢の主力、東山道からは前田・上杉・真田らの北方隊、恭順した佐竹氏・小田氏などの関東勢が加わり、さらに長宗我部・九鬼・宇喜多らが海上から水軍を引き連れて来襲(主に米を輸送)。

その総数は21万とも22万ともいわれる大軍で、いわば戦国オールスターのような軍勢だったでしょうね。

また毛利輝元に京都守護を命じて後顧の憂いを断ちました。
秀吉は陣触れ直後に長束正家(なつかまさいえ)に命じて米雑穀20万石余りを調達させ、天正大判1万枚で馬畜や穀物を集めました。

それに対し、小田原城では豊臣軍をどう迎え討つか軍議が開かれましたが、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた経験から、
結局はやはり籠城戦法を採ることに。

本日は、小田原城の曲輪を落とした話。

へっへ。

天正十八年(1590年)3月29日、羽柴秀次軍が山中城を、
織田信雄らが韮山(にらやま)城を攻撃し、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されました。

天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いで、主君だった織田信長の息子・信雄を手なづけた後、彼に味方する徳川家康を黙らせた、そんな時代背景です。

安土桃山時代から江戸幕末まで、
一途に主君が生涯徳川家だった内藤家。

小姓時代から教育係、徳川家の弓の先生、譜代大名まで上り詰め、
明治維新後は子爵家になったのも、全て武勲あってこそなんです。

小田原城攻めでの家康軍が、城の東側の攻撃をを受け持ち、
そこかしこで各部隊が先頭の準備を整えている頃。

内藤正成だけは全く準備をせず、さらに東側に控える海に向かって歩いていきます。

冷静沈着で少々変わり者の内藤。
頑固で慎重でクソ真面目だったそうです。

※大事な大事な家康様を命を賭けて御守りするのが仕事。

海辺に壊れた船がたくさんあるのを見つけて

「おい!あの壊れた船の板を集めて、わが陣まで運んどいてくれ」
と、内藤軍の兵士に命令しました。

それを見た部下達は・・・。

「アイツ・・・?ケチか!」

「壊れた板を集めてどないすんねん!」

「自分の領地にでも持って帰るつもりかww」

と、バカにしたように茶化します。

バーカバーカ、BOSSのバーカ!

ええ、私もたまにメンズ達に
【うちの社長残念ながらアホなんですよ】って言われますけどね。

ええ。(実話)

しかし、それにもめげず、内藤正成は、せっせと板集めに没頭・・・

そんなある日、

「何とか、近場の曲輪を占領したいが、徳川の陣と曲輪の間に広がっている沼地が、それを阻んでいる・・・
ここを渡る手立てはないものか!」

という話が持ち上がります。

すると、正成・・・

「私が集めた板を使っていかだを造り、沼地を渡って攻撃を仕掛けましょう!」

あの古い板でいかだを造り、見事、曲輪を落としたという事です。

【やーい、やーい、バーカ!】

と、部下に文句言われながら、【うるせー黙れ】とフルシカトでせっせと筏を作り、
結果的に曲輪を落として成功している。

はい。内藤は作戦を部下に漏らさず、
沼地を渡る策をバーカバーカと言われながら、
考えていたんですね。

実に私みたい。
やはり遺伝子である。

『翁物語』より

※曲輪は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。

郭とも書きます。
主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられます。

主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていました。

簡単に云うと曲輪とは城の1つの区画のことを意味します。

城を設計する時、この曲輪の配置がキーポイントとななりました。

例えば、「本丸」「二の丸」「三の丸」というような曲輪(区画)が集まることで、城が出来上がるのです。

豊宣 Toyonobu

『新撰太閤記 小田原征伐』
-石垣山・秀吉と家康-

芳虎 Yoshitora

『東照宮十六善神之肖像連座の図』-徳川十六神将-


大判錦絵三枚続。

ラストが内藤正成 拡大図。