内藤家が本所屋敷を手に入れた事を示す資料 | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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内藤 飛鳥

内藤家が本所屋敷を手に入れた事を示す資料

延岡系内藤家(本所屋敷を取得した時は、まだ、延岡に領地替えになっていない。

まだ、福島県磐城にいた頃の話)が、A点、つまり、横網町に本所屋敷を手に入れた経緯をよく示す資料が見つかった。

「拝領地はもともと2千810坪あったのだが、内、1,088坪は、承応2年(1653)の御司地として召し上げられた。

その残り1764坪の地は、三浦志摩守の町屋敷と交換した(相対替)。その地は無年貢の抱え屋敷であった。元禄12年(1699)阿部豊後守(老中)に申し上げたところ、この地も囲い家作の屋敷となり無年貢地となった。
正徳5年(1715年)2月23日に、内藤右京亮が、三浦壱岐守に譲り受けたいと申し出て、閏3月14日、許可が出た。」

その経緯と合意書に、三浦家と内藤家の家来の印を押すという書類の写しである。

手元にある切絵図の最古のもの(出版=寛文11年=1671年:実際の計測は明暦年間=1650年代後半と言われる。)には、この地点は、確かに三浦志摩の敷地になっているのが確認できた。この資料から、正徳5年(1715年)に、本所屋敷の住人が、三浦壱岐守から、延岡系内藤家敷に移ったことがはっきりわかる。

本所屋敷の場所を示す敷地図

本所屋敷に付いて、もう2件、内藤家に資料が残っている。

本所の抱屋敷取得に際して、幕府への申請の結果の認可の証文が一つである(資料名=“渋谷本所御抱屋敷1件“)。それによると、安永2年(1773年)に抱屋敷として、渋谷の屋敷と、本所の屋敷を申請している。

公儀の申請書類なので、最高の公式記録であるから、本所に抱屋敷があったのは間違いない。
残り一つは、屋敷の図面となる資料=“本所御広間絵図”(安永5年=1776年)である。

この敷地の北西側に両国川(現隅田川)があり、北東側に「津軽様境通」, つまり、隣に津軽家の敷地があることが分かる。 当時の切絵図と対応させると、A点の屋敷の北側に津軽出羽守屋敷がある。これで、本所の抱屋敷とは、確かに、切絵図内のA点であることがわかる。

この敷地の面積は1680坪である。大名の屋敷としてはむしろ小さいが、それでも、部屋数をみればまずまず大きな建物である。ここには示していないが、もう一つの資料=「仮大広間絵図」によると、それぞれの部屋の用途、使用者の名前が書いてある。多くは、仕事用の部屋に見えるが、その中の一部屋に、「御姫様御居間」というのがある。この建物を、仕事と、殿様一家の住居としても使用した様子が分かる。 敷地の北側に御長屋がある。そこに中間が住んでいたのか。多くの江戸屋敷がそうであるように、敷地内に稲荷がある。延岡のお稲荷さんを勧請したものであろうか。今山神社であろうか。また、東北方向に無常門がある。大名屋敷には必ず付いているもので、葬礼の時だけ使用する門である。

また、先の資料=「仮御広間絵図」(安永5年(1776年))には、この本所屋敷の建設申請とある。この本所屋敷を、1時的に、利用するという意図が読み取れる。この直前に何があったのだろうか。

抱屋敷認可の記録のある1773年の前年に、目黒の大円寺から坊主の放火によって起きた火事が、南西の風に乗ってあっという間に広がり、江戸三大火事の一つである明和の大火(明和9年2月29日=1772年)が起きている。

この放火犯を捕まえたのは鬼平犯科帳のモデル長谷川平蔵(宣以)の父親で当時の火付盗賊改方長官(役)の長谷川宣雄である。この火事によって、麻布、虎ノ門の上屋敷、六本木の下屋敷が類焼したようである。

この本所屋敷は、切絵図レベルでは、幕末には、内藤家敷地としては消えており、隣の津軽家の敷地となっている。

内藤家の資料では、文化6年(1809年)の、公儀への報告書の中には、本所関係は見えない。

これ以前に譲渡したのであろうと思い、探したところ、安永8年に800両(其の内100両は、世話人への礼)で、譲渡した資料が見つかった。

安政時代に作られた内藤家の「安政3年御改革覚書」(1856年)によると、内藤家の財政は破たんしていて、とにかく借金が膨大で苦しい状況で、その中に、江戸下屋敷(六本木屋敷)を手放すことを提案している(実際はされなかったようだ)。

しかし、本所の屋敷を手放したのは、この改革案の作成前である。この改革案が直接の原因ではないだろう。

ただ、苦しい台所事情のせいかもしれない。
内藤家の資料では、中渋谷村にもっていた抱屋敷は、幕末まで所有している。

三浦氏との不思議な縁

ここで、不思議な因縁がある。正徳5年(1715年)、三浦壱岐守から内藤右京亮に本所屋敷の持ち主が変わったことを先に述べた。

三浦とはだれか。江戸時代の延岡藩の藩主として、3番目の家系である三浦明敬壱岐守(1692~1712年)なのである。

三浦明敬壱岐守は、元禄5年(1692年)~正徳2年(1712年)の約20年間、延岡藩主になっている。その後、三河刈谷藩(愛知県刈谷市)に転封になっている。

この三浦氏は、その後も、2度も、転封されており、三浦明敬の3代後である、三浦明次志摩守(藩主時期=1756~1772年)は、美作勝山藩(岡山県美作市)に転封されて、そのまま幕末を迎えている。当時の小さな譜代大名の典型で、現在の転勤族に相当する。

この三浦明次志摩守の側室は、延岡藩初代藩主内藤政樹の娘である。このように、つながりは強いのである

本所屋敷の移動があった1715年当時の延岡藩の藩主は、4番目の家系である牧野氏(1712~1747年)の時代である。

この時、内藤家は、まだ、磐城藩の藩主で、自分が将来、延岡に行くことになるとは夢にも知らない時期である。

この時に、三浦氏から、内藤氏が譲り受けているのである。延岡がらみの不思議な縁ではあるが、当時は、両者も、不思議には感じていまい。

B点が延岡藩の仮屋敷であった可能性はないか?

鬼平犯科帳に出てきた石原町の延岡藩の屋敷というのは、B点の屋敷であろうが、これは、池波正太郎の切絵図の読み間違いの可能性が高いと思う。先のA点の横網町の屋敷にしたところで、その後の小説の展開には、何の問題もないのだから、A点の屋敷にしておけば良かったのにと、残念である。


可能性は低いが、B点が延岡藩内藤家の1時的な屋敷になった可能性が全く消えたわけではない。

というのは、延岡藩内藤家と挙母藩内藤家は、本家―分家の関係であり、

長谷川平蔵の時代の三河挙母藩の藩主内藤政峻(マサミチ)は、延岡藩内藤家の2代藩主内藤政陽(まさあき)の三男で、挙母藩へ養子として行った者である。

その父親である延岡藩内藤政陽自身は、三河挙母藩(当時は、上野安中藩)の藩主政里の実子で延岡藩に養子に迎えられているのである。

両家の繋がりの強さを示すものである。また、その後の時代になっても、延岡藩内藤家7代当主の政義は、彦根藩井伊家の出身で延岡に養子に来ており、井伊直弼のすぐ下の弟になる。その時期、挙母藩内藤家5代当主政優は、井伊直弼のすぐ上の兄である。

つまり、当時の延岡藩主と挙母藩主は、共に井伊家出身で、井伊直弼を含めて兄弟である。両内藤家は極めてつながりの強い藩同士であるから、屋敷の1時的な借用などがあっても不思議ではないのである。

本所屋敷は、現代地図では、どこに相当するか

すぐそばに、赤穂義士が討ち入った吉良上野介の屋敷(旧本所松坂町)が、元禄時代にあった。

その討ち入りのあった 元禄14年12月14日(1703年)における、今回扱っているA点の本所屋敷の主は、その時の、延岡藩主であり、先の一方の話題の人物である三浦壱岐守であった。

あの討ち入りの日は、屋敷の人々は、早朝に(現在の時刻で朝4時~6時ごろ)、異常な騒ぎを聞いたはずである。赤穂浪士たちは、敵を討った後、行進し、すぐ近くの両国橋に向かったが、渡ることを拒否されため、南へ向かい、永代橋を渡っている。

その時の騒然さを想像するに難くない。

江戸時代の両国橋は、現在の両国橋の50mほど下流にあった。

本所の川向かいは、柳橋があり、今でも、屋敷跡のそばの堤防に立つと、神田川の河口と柳橋の料亭街の名残が見える。

ここは、江戸時代の川遊びと、吉原に出陣する男たちの出発地であった。落語の「船徳」の新米船頭が客を乗せて大川(隅田川)に乗り出した時、「ここで、いつも船を3回、回すんでさあ」といった場所である。

また、幕府の御竹蔵の跡は、旧安田庭園や、両国国技館や江戸博物館の敷地となっている。

【資料】
1)図7:内藤家資料=1-4-427:「南本所横網」(正徳5年=1715年)(明治大所蔵)
2)図8:内藤家資料=3-19-41:「江戸本所御広間絵図」(安永5年=1776年)(明治大所蔵)
     内藤家資料=3-19-53:「仮大広間絵図」(安永5年=1776年)(明治大所蔵)

3)図1:新版江戸安見絵図:版元=奥村喜兵衛 (寛政9年=1797年)(現:国際日本文化センタ-所蔵)
4)図2:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(明和9年=1772年) (国会図書館所蔵)
5)図3:分間江戸大絵図 :版元=萬屋清兵衛 (正徳5年=1715年)(国会図書館所蔵)
6)図4:分間江戸大絵図 :版元=須原治右衛門(享保2=1717年) (国会図書館所蔵)
7)図5:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(文化3年=1806年)(国会図書館所蔵)
6)図6:分間江戸大絵図 :版元=須原屋茂兵衛(天保4年=1833年)(国会図書館所蔵)
7)内藤家資料=2-11-146:「本所屋敷御譲渡証文」(安永8年9月13日)(明治大所蔵)