加藤忠広 改易騒動
改易
慶長6年(1601年)、加藤清正
の三男として生まれ、兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となりました。
慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、
江戸幕府は加藤家に対して9か条から掟書を示し、
「未進の年貢の破棄」
「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」
「支城主の人事・重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件としました。
後に一国一城制によって、鷹ノ原城・内牧城・佐敷城の廃止も命じられ、
最終的には熊本城と麦島城だけの存続が許されました。
藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めています。
支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられていますが、
年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われています。
また、細川忠興は周辺大名の情報収集に努めていたが、加藤忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していました。
寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝
より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝
流人の生活
母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、
肥後に残していた祖母(正応院の母)も呼び寄せて、丸岡で22年間の余生を過ごしました。
丸岡は堪忍料であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えています。
忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯山参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見えます。
配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を「塵躰和歌集」に編んでいます。
徳川義宣の研究によれば、『小倉百人一首』で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、『伊勢物語』にも大きな影響を受けており、
東国へ下った業平のように身をやつした己を見て感慨にむせぶ様子が窺え、同様に光源氏にもその身を投影したものか『源氏物語』からの引用も多く見られると言います。
尺八など楽器に親しむ歌もり、
小姓たちに、奥では母・乳母・祖母・愛妾・侍女たちに囲まれ、歌を詠み、源氏を繙き、音曲を奏で、酒に酔っては花鳥を慈しみ風月を愛でるといった、地味でありながらも充実した生活をおくっていたことが垣間見えます。
20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去しました。
享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られました。
家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になりました。
遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えたそうです。