館山城 城主 内藤政長
内藤 政長
延岡藩内藤家宗家初代。
従四位下、左馬助。
永禄11年(1568年)、内藤家長の長男として生まれました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで初陣し、功績を挙げています。
天正17年(1589年)、豊臣秀吉により豊臣姓を下賜されました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で父である
内藤家長が後程記事に致します
【三河武士の鑑*男・元忠】
その跡を継ぐこととなったのが内藤政長です。
の南下に備え、戦後に戦死した父並びに自身の功績を賞されて天羽郡において1万石の加増を受け、上総佐貫3万石を領しました。
館山城は内藤政長。
新宿御苑は内藤清成。
駿府城は内藤信成。
私、飛鳥の家系は内藤正成。
※内藤子爵家で一番貧乏ですが
一番武術家で徳川家康SPです。
慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚により彼の孫娘を娶っていたことから安房館山藩の里見忠義が改易されると、
本多忠朝(本多忠勝の子)と共に館山城の受取りの使者になりました。
「里見忠義主従の廟」は里見忠義(さとみただよし)とその家臣を祀った廟【たまや、みたまや】です。
毎年関金町では里見忠義を偲んで御幸行列という行事が開かれます。里見忠義主従の廟のすぐ脇に家臣たちが眠っているとされる大きなシイの木があります。
この城受取りの総指揮官には政長が任命されています。
同年、大坂冬の陣が始まると安房の留守を任されました。
功績により戦後の同年、1万石を加増されました。
元和5年(1619年)には5000石を加増され、4万5000石を領する大名となりました。
元和6年(1620年)、筑後柳川藩の田中忠政が嗣子無くして没したため、
田中氏は改易となりました。
政長は城の受け取りを務めています。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入りました。
このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられています。
忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所としました。
加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況でした。
細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発でした。
このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ています。
この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんでいます。
更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、
最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間です。
この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていました。
熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていました。
元和8年(1622年)、陸奥磐城平7万石に加増移封されました。
寛永9年(1632年)には、肥後熊本藩の加藤忠広改易の際に再度城の受け取りを務めています。
加藤氏は大藩だけに家臣達の抵抗が危惧され、
政長の尽力によって無事受け取りを終えました。
肥後に向かう途中政長の船酔いによって、急遽小倉藩に立ち寄ったため、
予定外の上使到着に藩主・細川忠利は困惑し、嫌味を言われました。
内藤家は皮肉というか、
駄洒落(小馬鹿)に良くされます。
✴︎内藤新宿あだ名。
ない唐辛子。←内藤とうがらし。
【駿馬大名】
※徳川家康に功労を認められた内藤家2代目清成は20万坪にも及ぶ広大な領地
(東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ)を拝領。
その後、江戸中期には内藤藩の領地の一部を利用して出来た新しい宿場町が
「内藤新宿」と名付けられました。
栄え始めた江戸では、白米を食べる庶民の間で「江戸わずらい」が増えたため、打開策として野菜作りが推奨されました。
内藤家も様々な野菜を作り、なかでも内藤とうがらしと内藤かぼちゃは評判を集めました。