今からおよそ300年前
(1702年、元禄15年12月14日)お江戸で仇討ち事件がありました。
場所は両国は松坂町、回向院裏の「吉良邸」。
元禄14年3月14日江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰がありました。
折しも京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂(兵庫県)五万三千石の殿様、浅野内匠頭が、儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介に切りつけたのです。
「この間の遺恨覚えたるか!」
と叫んだそうですが、何を意味するのでしょうか。
吉良上野介は大事には至らなかったのですが、浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はお咎めなし。
喧嘩両成敗の鉄則に反したばかりに、
これから1年9ヶ月にかけて一大ドラマが展開することになるのです。
この年の勅使饗応の儀式は単なる年始の挨拶の返応だけではなく、特別の意味合いがあったそうです。
(皇族以外の女性としては初の)
の贈位が朝廷からもたらされる手はずになっていたのです。
ですから親孝行の徳川五代将軍綱吉
はこの大事な日を血で穢されて許せなかったとも言われています。
何故斬りつけたのかは原因はハッキリされていないのですが、朝廷接待の儀礼を教えてもらうべき吉良さんに賄賂を贈らなくて意地悪されたからだとされていますが、
他にも色々あるのです。
この二人、実は同業者なのです。
双方とも領地に塩田を持っていたのですが、
瀬戸内の赤穂の塩の方が、三河の吉良の塩より品質が良く、沢山採れました。
その辺の嫉妬や羨望もあり、意地悪を続けたという説もあるのです。
浅野の殿様は切腹、
赤穂の城は没収、
家臣は失職離散。
一方、吉良上野介
片手落ちだと謀反が起こり、仇討ちとなるのですが、実に1年と9ヶ月を要することになります。
家老の大石内蔵助
は恩赦特赦によるお家再興を働きかけ続けたのですが、虚しく日が過ぎていきます。
家臣達からの仇討ちの督促や想像以上の世論の期待に耐えきれず、ついに内蔵助は決断をすることになります。
元禄15年12月14日、大石内蔵助
両国松坂町「吉良屋敷」へ 。
この事件に江戸市民は喝采しました。
この時代は犬公方様の“生類哀れみの令”で庶民はビクビク暮らしており、
又、貨幣改鋳という悪政によるインフレにも喘いでいたのです。
この事件は、そういう息詰まり状態を一挙に晴らした一大爽快事だったのです。
翌年2月、大名家(熊本細川家、松山松平家、三河水野家、長門毛利家の四つの下屋敷)にお預けとなっていた全員が名誉ある切腹を命ぜられました。
この時点で四十七士は義士とみとめられたのです。
話を要約致しますと、
江戸時代中期の元禄14年3月14日
(1701年4月21日)
江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発しています。
この一件で加害者とされた浅野は即日切腹
となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなりました。
その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、
いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげました。
そしてその後の浪士たちの切腹までの一連の事件を総称して、
本日の史家である先生は「赤穂事件」と呼ばれています。
※忠臣蔵とは呼ばず
※赤穂事件と呼んでいます。
では何故でしょうか?
上杉子爵家9代目当主の上杉孝久
(たかひさ)先生は、「忠臣蔵」は上杉家の立場からすればテロリストと同じだと憤りの心中を語って下さいました。
戦上手で「軍神」とも言われる上杉謙信は、49歳で亡くなるまでに70回ほど戦い、負けたことはほとんどありませんでした。
毘沙門天を信仰し、生涯独身を通しています。子どもはいませんから、
跡を継いだ景勝(かげかつ)は養子でした。
謙信から4代目の綱勝が若くして亡くなったときも子どもがいませんでした。
このときは吉良家から養子をとって、
上杉家は御家断絶を避ける事が出来ました。
世継ぎがいなければ家は断絶します。
上杉家の6代・吉憲氏は、弟の勝周氏に領地の1万石をわけて分家をつくりました。
本家で男の子ができなかったときには、分家から養子に入る。
分家というのは世継ぎのストックのようなもの。
勝周が分家の初代で、上杉先生が9代目になります。
分家を作り、本家では沢山の子どもに恵まれて心配は解消されました。
一方、世継ぎのストックであるべき分家は、男の子に恵まれず、
分家の3代から9代の上杉氏にいたるまで養子。
しかも、上杉孝久先生以外は全員、
本家から養子に来ています。
吉良家から来た本家の5代・綱憲は、吉良上野介の長男でした。
綱勝の妹が上野介に嫁いでいて、生まれた長男を上杉家に出したのです。
今の上杉家は、上野介の血筋だとも言えます。
長男を上杉家に渡した上野介夫妻には男の子がいなくなり、後に上杉綱憲の次男・義周を世継ぎにもらっています。
上杉家ととても濃い血縁関係となった吉良家でしたが、
元禄15年12月14日、赤穂浪士の討ち入りで絶望のどん底へ突き落とされました。
「忠臣蔵」は美談になってますが、
あれ、どう考えてもテロリスト以外の何者でもないですよ。
47人の武装集団が丸腰の老人の寝込みを襲って、首をとったのですから。
と熱弁なさる孝久先生。
上野介は高家筆頭といって、朝廷をもてなすしきたりなどを、慣れていない大名に教える役目でした。
石高は低いけれども名門の家です。
ある程度は厳しく作法を教えていたでしょう。
でも、何か教わったら感謝をするものじゃないですか。それなのに、短気でかんしゃく持ちだった浅野内匠頭は、いじめられているような被害妄想を持ったのかもしれない。
内匠頭が江戸城内で上野介に斬りかかったのが松の廊下事件です。
当時の決まりごとで、お城の中で刀を抜いた内匠頭が切腹・お家断絶となったのは当たり前のことでした。
しかも、上野介は一方的に斬られたので吉良家が罪に問われないのも当然です。
内匠頭の家臣とはいえ、上野介に恨みを持つのはおかしな話でしょう。
赤穂浪士の討ち入りに対する幕府の処置も異常でした。
上杉家から上野介の世継ぎに入った義周は赤穂浪士たちとの戦いの最中に負傷、気絶して生き残りました。
それが死んだふりをしていたということになり、父親を守らなかったと罪に問われ、領地没収の上に身分を剥奪(はくだつ)。諏訪に幽閉されて21歳で亡くなってしまう……。
こんなことを言っても、今さら
「忠臣蔵」のイメージを覆すことは難しいけれど、上野介は悪くないと思うのです。
と上杉孝久先生。
※上杉綱憲
・生誕 寛文3年10月28日(1663年11月27日)
・死没 宝永元年6月2日(1704年7月3日)
・改名 吉良三之助→上杉景倫→綱憲
・別名 喜平次(上杉氏時代の通称)
・戒名 法林院殿法印権大僧都映心
・官位 従四位下
・侍従、弾正大弼
・幕府 江戸幕府
・主君 徳川家綱→綱吉
・藩 出羽米沢藩主
・氏族 吉良氏→上杉氏
・父:吉良義央、
・母:上杉富子
・養父:上杉綱勝
・弟:吉良三郎
・正室:徳川光貞の娘・栄姫
・側室:茨木氏、樫田氏
・子 吉憲、吉良義周、憲孝、勝周、勝延、豊姫(黒田長貞正室)
・養女(いずれも吉良義央の娘):島津綱貴継室、津軽政兕室、酒井忠平室(死別後、大炊御門経音室)
※浅野長矩
・時代 江戸時代中期
・生誕 寛文7年8月11日(1667年9月28日)
・死没 元禄14年3月14日(1701年4月21日)
・改名 犬千代(幼名)、長矩
・別名 又一郎、又市郎、浅野内匠頭(通称)
・諡号 梅谷
・戒名 冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
・官位 従五位下・内匠頭
・藩 播磨赤穂藩主
・氏族 浅野氏
・父:浅野長友
・母:内藤忠政の娘・波知
・兄弟 長矩、長広(大学)
・妻 正室:浅野長治の娘・阿久里(瑤泉院)
播磨赤穂藩の第3代藩主。
官位は従五位下 内匠頭。
官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。
赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。
※吉良義央
・時代 江戸時代前期 - 中期
・生誕 寛永18年9月2日(1641年10月5日)
・死没 元禄15年12月15日(1703年1月31日)
・改名 三郎(幼名)→義央
・別名 左近(通称)卜一(号)
・墓所 万昌院功運寺、片岡山華蔵寺
・官位 従四位下侍従兼上野介、従四位上左近衛権少将
・幕府 江戸幕府奥高家、高家肝煎
・氏族 吉良氏(清和源氏足利氏流)
・父:吉良義冬、
・母:酒井忠勝の姪(忠吉の娘)
・兄弟 吉良義央、東条義叔、東条義孝、
東条冬貞、東条冬重、孝証
・妻 正室:上杉綱勝の妹・富子(梅嶺院)
・子 上杉綱憲、吉良三郎、鶴姫(島津綱貴室)振姫、阿久利姫(津軽政兕室)
菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)
・養子:吉良義周(上杉綱憲の次男で義央の孫)
江戸時代前期の高家旗本。
高家肝煎。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品
『忠臣蔵』では敵役として描かれる。
幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。
吉良上野介と呼ばれることが多い。
本姓は源氏(清和源氏)。
家紋は丸に二つ引・五三桐。
❇︎内藤忠政の娘・波知・浅野長矩の母。
※内藤忠政
内藤忠重の父、内藤清成の養父。
三河の内藤氏の一族。
藤原秀郷(または藤原道長)の子孫。
丹波・周防の内藤氏とは同族であるとされる。
四男・内藤政次の婿養子である内藤正勝は、
信濃国岩村田藩祖となった。
志摩鳥羽藩の第2代藩主。
内藤 忠政(ないとう ただまさ)は、志摩国鳥羽藩の第2代藩主。同名の祖父である忠政と区別するためか、史書により忠種と記されることもある。
❇︎浅野長矩の外祖父にあたる。
元和元年(1615年)
初代藩主内藤忠重の長男として生まれる。
承応2年(1653年)、父の死去により家督を継ぐ。
父の時代による最悪な税制を改めるため、江戸屋作左衛門を登用して新田開発を行ない、さらに年貢も定免制度に改めるなどして財政再建を目指した。
寛文9年(1669年)には領内に検地を実施して税制改革に成功を収めた。
寛文13年(1673年)7月12日に死去した。享年59。跡を次男の忠勝が継いだ。
藤原北家朝臣系勧修寺流支流・上杉孝久先生
藤原北家朝臣系魚名流秀郷派・内藤飛鳥
※勧修寺流は藤原北家高藤流の公家
(公家貴族)の一流です。
何か深い御縁を感じておりました。
私と同じ藤原北家の血縁の流れ。
「仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌」
内藤家の家訓でもありますが、
実は上杉謙信公も深く愛した言葉であります。
一般には、荒れ狂う戦国時代の嵐の中で、上杉謙信公は見返りを求めないで助けを求める軍勢の為に戦を助成したり、
将軍家を敬い幕府より官位官職を得て大義名分の下に行動を行った武将として知られています。
これをして、上杉家は『義』という指針を持って家中をまとめたと言うのが有名ですが、義とは何ぞや?
という事を考えてみます。
儒教の教えには、五徳の精神
(仁・義・礼・智・信)というのがあります。
仁は、人を思いやる心。
義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心。(利による行動と対比される)
礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。
智は、知識を持つこと。(学問)
信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。
という意味ですが、この中の『義』という、私利私欲で動かずに大きな志を軸に行動する。
これを上杉謙信が実行して来たとさせれていて、それがこの上杉家の家風と言われています。
これは謙信が一度、家臣達の裏切りに合い、世を捨てて仏門に身を捧げようとした事があり、慌てた重臣達の引き留めにより、自身を毘沙門天の化身であるとして、この『義の誠心』と言われる行動を取り出した事に由来します。
この後、武田信玄に信濃を追われてきた村上軍に、奪還後の領土安堵を約束して共に武田軍に対して軍を出します。
そして、将軍から関東官僚という位を拝して、その大義名分を基に関東へ兵を出しました。
さらに謙信は、海に面した領土を持たぬ武田領に対して、当時の隣国であった北条、今川が武田領に対して塩止めを行った際には、武田領への塩の交易を禁止しませんでした。
この事は後に
『敵に塩を送る』
ということわざになり、現代に受け継がれています。
ライバルの信玄は亡くなる際に、こういった上杉謙信の行動原理を理解していた為に
『自らの死後は謙信を頼れ』
と語った逸話も残されています。
その後も、将軍足利義昭からの命により、信長討伐に向けて立ち上がろうとしています。
この上杉謙信公は、類稀な軍才を持っていて、戦の強さはずば抜けていました。
また、自国の民の為に金銀山を開発したり交易などにも力を入れさせて良政を敷き、人心をまとめ上げています。
謙信の死後に跡目を相続した景勝もこういった謙信の行動規範にならい、秀吉死後の家康による僭王を認めませんでした。
これにより、関ヶ原の前哨戦となる上杉討伐が起こる訳ですが、討伐軍が遠征途中で上方より三成挙兵の知らせを受け、軍を取って返す事になった際には、三成軍との挟み撃ちを試みるチャンスにも拘わらず、後方より逃げる敵を打つのは上杉の義に反すると言って景勝は追撃を中止します。
戦国末期のこういった話が、義の上杉というイメージを私達に伝え残しています。
この事から上杉の『義』というのは、私欲を捨てて五徳の誠心を体現するという事だと考えられている訳です。
時代の流れを経て、今此処に出会えることに
深く感謝御礼申し上げます。