日本のGWは、株式市場も休みなので、タイにいても、暇を持て余してしまいます。。。まあ、自分の若いころ、いろんな意味で、ボタンの掛け違いがあり、精神的には、つらい、欲求不満なサラリーマン生活でした。。。今、20代、30代のサラリーマン生活を振り返り、もっと俯瞰的な見地から、未熟な自身の足跡を、書き綴ってみたい。

 

思えば、東京の私大を卒業して、某都市銀行に深く考えずに入ってしまったのが、ねじれの始まりか。3年間、神戸の某支店で、雑用的な、商店街の集金をさせられ、付加価値のある仕事を一切、経験することなく、3年後に東京の都心の支店に転勤となったわけですね。神戸の田舎支店で、経験したノウハウなんて汗をかいてどぶ板営業ぐらいのもの。東京の丸の内エリアのホワイトーワーカーのサラリーマンにどういう対応をしていいか、全く、よくわからなかったのが、正直なところ。当時としては、大手有名企業から転職なんて持っての他の空気があったなか、26歳になっていた自分は、なんとか転職しようと、いつも日経新聞の日曜版の転職広告を見ていました。。。

 

今、ドル円がどうのとか、ニュースに出ますが、当時、為替のディーラーという仕事、ようやくマスメディアに出始めたころで、銀行で4年、どさ回りしか知らなかった自分には、まさに未知の世界でした。ある日、新聞に外為ディーラー募集をいう求人広告が掲載されたので、藁をつかむ気持ちで、履歴書を送ったのを覚えいます。募集要項には、経験不問とあったので、まさしく未経験で応募したわけです。後から聞いたら、銀座の有名なケーキ屋の店員さんからの応募があったと聞きました。まさしく1発太郎というか、幸運にも、その米系の中堅銀行に採用された私は、それから、驚きの2年間を過ごすことになります。。。

 

その外資銀行のディーリング部署のボスは、50代くらいで為替ディーラー人生、まっしぐらの厳しいプロの男性、高卒の英国人で、ひたすら為替の世界を生き抜いてきただけに、目が厳しかった記憶があります。先輩の日本人社員は、1流の大学を出て、やはり、外資の金融機関で鍛えられた海千、山千の人たち、当時、東京銀行という銀行があって、そこの銀行出身の為替ディーラーが、外資に、続々とヘッドハントされていた時代でもありました。。。

 

私が採用されて配属されたのは、カスターマーディーラーをいうポジションで、30代後半の英語でできて、一流大卒の紳士的な人が上司となりました。。。2年間、とりあえず、外為ディ-ラーの世界に身を置いたら、英国人のボスが、先輩ディーラーを連れて、ごっそり、大手米系証券会社に転職したことから、私の上司の日本人も、英国支店のカスターマーディーラーとして、日本から転職したことで、29歳で、アメリカのビジネススクールへの留学の準備に入りました。。。

 

当時、飯田橋にあったピッツバーグ大学日本校MBA準備コースなる予備校に、6か月通い、英語のリーディングや、エッセイなどを練習して、あのTOEFLとGMATを数回、受験しました。。。ということで、20代、30代の初めは、都市銀行、米系銀行を経て、アメリカの大学院に留学、ようやく、33歳でMBAを取ってアメリカから帰国することになりました。。。

 

時は、1993年、日本ではバブル崩壊が本格化したタイミング、一方、アメリカは、ブッシュ政権で不況に突入、2年前は、日本人MBAが、簡単にアメリカで就職できたはずが、わずかのタイミングに乗り遅れて、残念ながら、日本に帰国したといった方が正しいですね。。。

 

コロラドの田舎大学で、MBAを勉強中に、あの穀物商社のカーギルが、トレーダーを募集しているとのまた、日経新聞の記事があったので、ダメモトで、履歴書を送ったら、ミネソタ州のカーギルの本社から電話があり、面接するので、1泊2日で、ミネソタ州のミネアポリスに飛行機でいきました。。。湖がたくさんある田舎町ですが、本当に自然が綺麗な場所に本社があって、そこで、野村證券出身の日本人が2名、働いていたのは、ビックリしました。。。当時、ヘッジファンドという言葉を知りませんでしたが、カーギルは、元祖ヘッジファンドという金融業を行っていました。。。5人の現場のアメリカ人との面接をする予定が、3人めで、オプションの質問に答えられず、その場、面接終了、帰っていいとの話になりました。。。今でも、貴重な思い出でもあります。。。

 

そんなわけで、アメリカの大学院に留学、MBAを取得して、なんとか、証券業務、インベスバンクの業界に入りたかった自分としては、厳しい現実を感じながら、日本に帰国したのが、1992年の年末ごとだった記憶しています。