以前にもこちらのブログでお伝えした通り、facebookからアカウント停止されて1週間が経とうとしている

 

 

 

facebookの仕組みとして、いいねを送りあう頻度が多い人の投稿しか、タイムラインに表示されない。そのため、公開アカウントであっても、ごく一部の考え方が近いであろう人としか、わたしの投稿も表示されないようになっていく。

 

どんどんいいねを送り合う「友達」が少なくなり、友達の輪は縮小して行った。暇さえあればfacebookのアイコンをタッチしては開閉を繰り返し、仮想空間のつながりでしかないfacebookの友達のコメントにいいねを付けて見回る日々だった。わたしが持ち合わせている帰宅後のエネルギーをずいぶん余計な心配や気遣いで浪費していたなと、アカウント停止前の状態を思い出す。

 

アカウントが停止されてからというものの、以前から投稿内容を連携をしていたインスタグラムから、「わたしのアメブロやXで繋がってほしい」とお願いの投稿をしたものの、数名を除いてfacebookの友達はだれもわたしの呼びかけには応じなかった。この時に、今までのfacebookの繋がりは、脆弱なものであることがはっきりと分かった。彼らとは「知り合っていなかった」も同然なのだった。

 

 

 

 

わたしはインフルエンサーでもなんでもない。普段は中学校で講師をしたり店員をしている、いわば名もなく貧しい小さな個人事業主だ。そして詩人でもある。心機一転、いいねをしてくれる人はまだ少ない、アメブロとXと詩の創作でわたしの声を届けるという試みを再開した。

 

誰にも受け入れてもらえなくても、自分が信じることや感じたこと、伝えたいことを、コツコツと綴っていきたい。新たに友人を作ることはSNSでは不可能だから、わたしの内面の本音を書く。そして、ひとりの小さな叫びをネット空間に解き放つ。

 

ネット空間で「知り合う」ということは、友人を作ることではない。ましてや、恋人を捜し回ったりすることでもない。布教目的のひともいるが、相手にしないことだ。リアルに知り合っている友人や仕事関係の知り合いに、自分の本音を恐れなく話すことは、やはりできない。しかし、ブログではそれが可能だ。存在の根底から沸き起こってくる本当の心の声を書いたり読んだりすることで、なんらかのさざ波を人のこころに起こせるはずだ。

 

少しずつでも、人々の考え方や感性に訴えかけることで、この社会を変えていく最初のきっかけのエネルギーを発することができたら、素晴らしいことだ。わたしが詩を書き続けているのも、短文を書いているのも、わたしにとっては日記と同じだ。だけど、既存の大手ニュースメディアは何一つ真実を伝えることがない今、個人の本音ほど、重要なものはないと確信している。