学校が危ない!

国立大学法人法・改正案が参議院で審議入りしています。真理追求の場である大学が民間企業に切り売りされつつあります。

 

テレビはわたしはほとんど見ないのですが、テレビのニュースでは奇妙なことにこの事について取り上げられていないようです。

 

 

まずはこの短い動画をご覧ください。

自由な真理追及の場である大学がどういう危機に瀕しているのか、

ご理解いただけると思います。

 

 

大学教授が次々に反対を表明しています。

 

 

わたしも署名しました。

 

このオンライン署名を行っている 「稼げる大学」法の廃止を求める 大学横断ネットワーク

による説明は以下の通りです。長いですが大事なことですので、引用します。

 

大学の自治に死刑を宣告する国立大学法人法「改正」案の廃案を求めます ―「稼げる大学」への変質を求める大学政策の根本的転換を!

 日本における「大学の自治」はいまや瀕死の状態です。この11月に臨時国会にかけられる国立大学法人法の改正案(詳細は後半の【法案解説】をご参照ください)が、この瀕死の「自治」に最後のトドメをさそうとしています。わたしたちは、この法案の廃案を求めるとともに、国の大学政策を「選択と集中」から「大学で学び研究する権利の保障」へと抜本的に転換することを求めます。

 

【法案の背景】

国立大学の「失われた20年」

 今年は国立大学を法人化する法律が制定されてから20年目にあたります。大学の自律性を高めるための「改革」なのだという表向きの説明とは裏腹に、法人化後、国立大学の自治と自律性は段階を踏みながら破壊されてきました。

 

 第1段階として、国は、大学運営にかかわる基盤的経費(運営費交付金)を10年近くかけて1割以上カットしました。第2段階として、国立大学のトップである学長の選考について、政財界の意向が及びやすい仕組みをつくりました。第3段階として、「選択と集中」の名の下に国が一方的に定める評価指標の達成度に応じて、基盤的経費を増減することにしました。多くの学長は、予算を少しでも増やすために文科省の意向を忖度するようになりました。第4段階として、大学が株式市場やベンチャー企業に投資することを奨励する一方、企業から投資を受けて「稼げる大学」に変身することを求めました。

 

 この20年間をふり返ってみると、政財界のねらいは、つまるところバブル崩壊後の産業界の国際競争力を立て直すために大学を「活用」することにあったといえます。経済がクローバル化する中で、多国籍化した企業にビジネスチャンスを与えることが重視されてきました。たとえば2017年には国立大学法人に土地の貸し付けを認める通知がなされ、今回の改正案ではさらに、これまで文科大臣の認可が必要であった貸し付けを届け出により可能にすると規定しています。土地の貸し付けによって国立大学法人が利益をあげ、これを利用した企業がその「有効利用」によって利潤をあげるという点ではウィンーウィンの関係もありうることでしょう。ですが、そこでは学生にとって、運動場や寄宿舎、学生食堂、保健管理センターなどのキャンパス空間が、どれほどに重要なのかは無視されます。学生たちがリーズナブルで安全安心な生活をおくれることを優先していたら、「稼げない」からです。

 土地の貸し付けに限られたことではありません。大学を「稼げる大学」に変えようとする力は、学生は授業料の額に応じてサービスを受けるべきカスタマー(顧客)、教職員はコストカットに協力すべき従業員へと変質させてきました。大多数の国立大学で学長を投票により選出する権利が剥奪されたことは、その象徴です。今回の改正案は、「運営方針会議」なる合議体を設置して、大学の運営・研究・教育にかかわる方針(中期目標・中期計画)や資源配分のあり方(予算・決算)を決定する権限を与えると定めています。しかも、「運営方針会議」の委員の任命にあたっては文科大臣の「承認」を必要とするとしています。

 この法改正は、学生や教職員と、文科大臣の意向に忠実に「経営判断」をおこなう少数者(運営方針会議委員、学長、学長選考・監察会議委員)を決定的に分離した上で、学生や教職員の意見を無視ないし否定できる制度を完成させようとするものであり、「大学の自治」への死刑宣告にも等しい内容です。

「稼げる大学」「稼げる自治体」の行く末

 わたしたちは、「大学の自治」だけが守られればよいと考えているわけではありません。むしろ日本社会全体を多国籍企業にとって稼ぎやすい場にしようとする実践の一環として、今日の大学「改革」を捉えています。たとえば地方自治体もまた「稼げる自治体」となることを迫られてきました。具体的には「公共サービスの産業化」を合言葉として、地方行政や社会保障などの公共サービスを民間企業の市場として開放することが求められてきました。その結果として生じたのは、公務の外部委託や派遣社員雇用の拡大であり、地域社会内で循環するはずのお金が、東京に本社を置く大企業や多国籍企業に吸い上げられていく事態でした。その結果として公共サービスの担い手が減り、場合によっては自治体そのものが吸収合併により消滅させられた地域も少なくありません。

 地方自治体の場合には、それでも、住民は主権者として首長を選挙により選出することができます。合併にかかわる住民投票でこれを否決することも可能です。ところが、国立大学の場合には投票による歯止めがもともと慣行としてしか成立していなかったために、独裁的な体制がいとも簡単に形づくられてしまいました。公立大学や私立大学の場合には大学により代表を選出する仕組みはそれぞれ異なりますが、国立大学以上に「稼げる大学」になる圧力にさらされてきました。

 わたしたちは、自分たちの研究が結果としてイノベーションにつながり、新たな産業や文化を生みだしたならば、それは素晴らしいことだと思っています。また、研究や教育の意義について市民社会に向かって語りかけていく説明責任も感じています。ですが、研究や教育にまつわる創造性はつまるところ個々人の創意工夫と安定した環境に由来する以上、政財界の意向を体した人物がもっぱら経営的な判断に基づいて「計画」なり「目標」を定めていくことは、大学の研究力や教育力を低下させることにしかならないと確信しています。国は、だれもが「大学で学び研究する権利」を保障するために大学政策を根本的に転換し、基盤的経費の充実と安定財源化に努めるべきです。

 「稼げる大学」「稼げる自治体」「稼げる保育園」「稼げる公園」…というように、なにもかもが近視眼的に考えられた経済的利益に還元される社会の行く末には、いったいなにが待っているのでしょうか。それを透視し、その打開策を考えることも大学の重要な役割です。大学人がその役割をきちんと果たせるようになるためにも、改正案に反対の意向を表明し、国の大学政策の根本的な転換を求めます。

 

 日本における「大学の自治」はいまや瀕死の状態です。この11月に臨時国会にかけられる国立大学法人法の改正案(詳細は後半の【法案解説】をご参照ください)が、この瀕死の「自治」に最後のトドメをさそうとしています。わたしたちは、この法案の廃案を求めるとともに、国の大学政策を「選択と集中」から「大学で学び研究する権利の保障」へと抜本的に転換することを求めます。

 

【法案の背景】

国立大学の「失われた20年」

 今年は国立大学を法人化する法律が制定されてから20年目にあたります。大学の自律性を高めるための「改革」なのだという表向きの説明とは裏腹に、法人化後、国立大学の自治と自律性は段階を踏みながら破壊されてきました。

 第1段階として、国は、大学運営にかかわる基盤的経費(運営費交付金)を10年近くかけて1割以上カットしました。第2段階として、国立大学のトップである学長の選考について、政財界の意向が及びやすい仕組みをつくりました。第3段階として、「選択と集中」の名の下に国が一方的に定める評価指標の達成度に応じて、基盤的経費を増減することにしました。多くの学長は、予算を少しでも増やすために文科省の意向を忖度するようになりました。第4段階として、大学が株式市場やベンチャー企業に投資することを奨励する一方、企業から投資を受けて「稼げる大学」に変身することを求めました。

 この20年間をふり返ってみると、政財界のねらいは、つまるところバブル崩壊後の産業界の国際競争力を立て直すために大学を「活用」することにあったといえます。経済がクローバル化する中で、多国籍化した企業にビジネスチャンスを与えることが重視されてきました。たとえば2017年には国立大学法人に土地の貸し付けを認める通知がなされ、今回の改正案ではさらに、これまで文科大臣の認可が必要であった貸し付けを届け出により可能にすると規定しています。土地の貸し付けによって国立大学法人が利益をあげ、これを利用した企業がその「有効利用」によって利潤をあげるという点ではウィンーウィンの関係もありうることでしょう。ですが、そこでは学生にとって、運動場や寄宿舎、学生食堂、保健管理センターなどのキャンパス空間が、どれほどに重要なのかは無視されます。学生たちがリーズナブルで安全安心な生活をおくれることを優先していたら、「稼げない」からです。

 土地の貸し付けに限られたことではありません。大学を「稼げる大学」に変えようとする力は、学生は授業料の額に応じてサービスを受けるべきカスタマー(顧客)、教職員はコストカットに協力すべき従業員へと変質させてきました。大多数の国立大学で学長を投票により選出する権利が剥奪されたことは、その象徴です。今回の改正案は、「運営方針会議」なる合議体を設置して、大学の運営・研究・教育にかかわる方針(中期目標・中期計画)や資源配分のあり方(予算・決算)を決定する権限を与えると定めています。しかも、「運営方針会議」の委員の任命にあたっては文科大臣の「承認」を必要とするとしています。

 この法改正は、学生や教職員と、文科大臣の意向に忠実に「経営判断」をおこなう少数者(運営方針会議委員、学長、学長選考・監察会議委員)を決定的に分離した上で、学生や教職員の意見を無視ないし否定できる制度を完成させようとするものであり、「大学の自治」への死刑宣告にも等しい内容です。

「稼げる大学」「稼げる自治体」の行く末

 わたしたちは、「大学の自治」だけが守られればよいと考えているわけではありません。むしろ日本社会全体を多国籍企業にとって稼ぎやすい場にしようとする実践の一環として、今日の大学「改革」を捉えています。たとえば地方自治体もまた「稼げる自治体」となることを迫られてきました。具体的には「公共サービスの産業化」を合言葉として、地方行政や社会保障などの公共サービスを民間企業の市場として開放することが求められてきました。その結果として生じたのは、公務の外部委託や派遣社員雇用の拡大であり、地域社会内で循環するはずのお金が、東京に本社を置く大企業や多国籍企業に吸い上げられていく事態でした。その結果として公共サービスの担い手が減り、場合によっては自治体そのものが吸収合併により消滅させられた地域も少なくありません。

 地方自治体の場合には、それでも、住民は主権者として首長を選挙により選出することができます。合併にかかわる住民投票でこれを否決することも可能です。ところが、国立大学の場合には投票による歯止めがもともと慣行としてしか成立していなかったために、独裁的な体制がいとも簡単に形づくられてしまいました。公立大学や私立大学の場合には大学により代表を選出する仕組みはそれぞれ異なりますが、国立大学以上に「稼げる大学」になる圧力にさらされてきました。

 わたしたちは、自分たちの研究が結果としてイノベーションにつながり、新たな産業や文化を生みだしたならば、それは素晴らしいことだと思っています。また、研究や教育の意義について市民社会に向かって語りかけていく説明責任も感じています。ですが、研究や教育にまつわる創造性はつまるところ個々人の創意工夫と安定した環境に由来する以上、政財界の意向を体した人物がもっぱら経営的な判断に基づいて「計画」なり「目標」を定めていくことは、大学の研究力や教育力を低下させることにしかならないと確信しています。国は、だれもが「大学で学び研究する権利」を保障するために大学政策を根本的に転換し、基盤的経費の充実と安定財源化に努めるべきです。

 「稼げる大学」「稼げる自治体」「稼げる保育園」「稼げる公園」…というように、なにもかもが近視眼的に考えられた経済的利益に還元される社会の行く末には、いったいなにが待っているのでしょうか。それを透視し、その打開策を考えることも大学の重要な役割です。大学人がその役割をきちんと果たせるようになるためにも、改正案に反対の意向を表明し、国の大学政策の根本的な転換を求めます。

 

 

こちらの動画をご覧いただければ、さらに分かりやすいと思いますが、

わたしが最も共感した東京大学の本田教授のお話(上の動画の1時間14分あたりから)を文字起こししましたので、こちらに引用します。

皆さんでオンライン署名に参加し、日本の教育を守りましょう!

 

 

「ここ30年、経済はダダ下がり、グダグダなんですね。全く価値を生み出せていないというのが、いまの日本の経済状況なんです。

 

経済が健全に回るということ自体は社会の機能として必要なんですけれども、いま起きているのは健全な経営や技術の進展によって経済システムが発展することを良しとするのではなくてですね、本当にこう、癒着が様々な証拠から明らかになっているような政財界のごく一部が非常にずるいようなやり方を使いながら自分たちだけでその価値や利益を独占しようとしているような状況に見えるわけです。

 

日本って少子高齢化が著しくて、人手がどんどん少なくなっているわけです。若い人が減っていって、ケアが必要な高齢者はどんどん増えるっていうような状況があってですね、変な言い方をすると政財界にとって旨味があるような社会ではなくなっていると。と同時に政界も財界も頭の古い高度経済成長期、安定成長期のジャパン・アズ・ナンバーワンの経験で「あれで良かったのじゃ!」と思っているような爺さまが巣くっているわけです。80を過ぎたような、家族観とか女性観も古いような爺さまが政界と財界の中に山ほどおると。

 

その人たちが経済至上主義ならちゃんと経済まわせよって思うんですよね。成長率上げろよ、賃金上げろよって思うんです。まっとうなやり方で・・・。

 

でもそうじゃなくて本当であれば公共の財産というかですね、公共のために貢献すべき場である、それこそ大学であるとか、あるいはさっき仰った初等中等教育もそうなんですけれども、そういう全員に無償、もしくは極めて安価で本来確保しなければならないような事柄に旨味を見出して、そこに付け込んで来ようとするようなことでしか儲けることができないような企業と教育産業なども含みますけれども、それと財界がべっとりと癒着していると。

 

もう彼ら、ごく一部の人の思惑だけでいろんなまだかろうじて日本に残っているあらゆる良いものを、こう、濡れ手に粟でつかみ取って潰していくという・・・長期的視点も何もないですね。まだ多少旨味があるうちに、全部吸い尽くしてしまおうという、そういう状況ですね。

 

だから断末魔だと思います。断末魔!吉里吉里舞いの状況です。経済至上主義とか新自由主義とかいう言葉がぬるく思えるくらい、今の日本の腐敗というかですね、そういう状況は著しいと思っています。」