奈良時代の万葉歌人。
天平4 (732) 年に藤原宇合 (うまかい) に歌を贈ったことを除いては,正確な経歴は不明。
宇合の下僚として『常陸国風土記』の編纂に関係していたとする説もある。
『万葉集』に長歌 14首,短歌 19首,旋頭歌1首を残すが、その多くは「高橋連 (むらじ) 虫麻呂之歌集中出」「高橋連虫麻呂歌中出」の形で収められ、その範囲に異説がある。
作品の大部分が旅行中につくられた点,伝説,説話を素材にした作品が多くしかもその叙述が詳細な点,身辺のことを歌わず叙景歌もない点などが特色。
【コトバンクより引用】
結局のところ、消没年不詳。
住所不定、経歴不詳。
「虫麻呂」という名が本名かどうかもわからない。
唯一、宇合に歌を贈ったのは真実。
万葉集に歌を残したのも真実らしい。
その中で最も有名な歌は筑波山での嬥歌(かがい)の歌です。
歌垣とも言われていますが、決定的に違います。
歌垣は独身男女が歌を送り知り合う出会いの場です。
中国のミャオ族の歌垣をNHKで放送したのを見たことがあります。
数十人の男女が森の広場で出会い気に入った娘がいると男性が歌を送ります。
女性は嫌ならスルーし、決定権は女性にあるようでした。
嬥歌はハッキリ言えば「乱行パーティ」です。
歌の内容もよく知らずに「万葉集で歌われた『嬥歌(かがい)』の里」と称して観光客を誘致するのは無知蒙昧な蛮行と言えます。
同じ県民として甚だ恥ずかしい行為です。
しかし嬥歌について読まれて歌はこれから解説するこの一首だけです。
たった一首しかないこの歌で筑波山で嬥歌が行われていたと言えるでしょうか?
詠んだ虫麻呂のことさえ何もわからないというのに。
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万葉集 2-1759
鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尒 率而 未通女壯士之 往集
加賀布嬥謌尒 他妻尒 吾毛交牟 吾妻尒 他毛言問 此山乎 牛掃神之
從來 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛・咎莫
鷲の住む 筑波乃山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)いて
未通女壯士(をとめをとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に
吾も交わらむ あが妻に 他(ひと)も言問(ことど)へ この山を
領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは
めぐしもな見そ 言(こと)も咎むな
【大意】
①鷲の住む筑波の山の裳羽服津の、そのほとりに呼び合って若い男女が集まってカガイをするそのカガイで他人の妻に私も交わろう。私の妻に他の人も言葉をかけよ。
この山を領じている神が、昔から禁止しないことである。
今日だけは愛しい人も見るなかれ、咎め立てもするな。
②鷲の住む筑波の山の裳羽服津の、その泉のほとりに、つれだって女や男が集まり、歌をかけ合う嬥歌で、他人の妻に私も交わろう、わが妻に他人も言葉をかけよ。
この山を治めになる神が、昔から禁じないことだ。
今日だけは監視するな。咎め言もするな。
【嬥歌についての説明】
神様に対する神祭り。
嬥歌は東国方言で歌垣のこと。
元来春の野遊び、又は秋に行われた行事で歌の掛け合い、性の交換があり水のほとりで催された。
作者も参加したのでは?と書いてある。
【裳羽服津(もはきつ)の説明】
①「代匠記精撰本」には筑波の神に参詣するものが謹んで裳をはくゆえの名。
津とは集まるところの意の名称。
②「裳をはいた津」の意味。
裳とは何か?
なぜはくのか書いていない。
もしや、脱いだ衣裳をはいた津?(だとしたらかなりリアルだ。)
しかしその方向に謎かけている感じがする。
どちらにもあまり信憑性を感じない。
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【宮古訳】
この歌は3つにわかれています。
①鷲住=ジュウジュウ=綿でも棉(木綿きわた)
棉、麻、苧麻のこと。
筑波乃山之=筑波山の
裳羽服津乃=綿着物の港
裳羽=綿の着物
服津=紀の国の港
其津乃上尒=紀の国の港では
率而=素地(生地)
未通女壯士之=まつつめそじ=まずは生地から積め
②往集=ジュウジュウ=綿は真綿で繭からとれる絹織物のこと。
加賀布嬥謌尒=かがうやかに=輝かに
他妻尒=多彩に
吾毛交牟=あもこむ=編み込む
③吾妻尒=ごさいじ=五色に=御所に
他毛言問=たけこま=武駒=武島(タケは武、竹、嶽でも同じ)
他毛=武
言問=コマ=頂上(TOP)=島(Cima)
竹駒神社
御所駒瀧神社
武島
竹芝
高柴
などは同じ意味を持つ。
此山乎=しさんよ=紫山=筑波山
牛掃神之=牛王ハルとハハキ姫の
從來=じゅらい=入来=お出でになった
不禁行事叙=ふきんぎょうじょ=布巾行事所=綿(絹)、木綿(棉)、麻、苧麻等の織物製品の交易を司る場所。
布巾=布織物
行事所=古代日本の宮廷組織
行事神社 栃木県芳賀郡芳賀町西高橋
【主祭神】
武甕槌命=鹿島の神
大己貴命=大国主
【配神】
木花咲耶姫 武甕槌の妻
須佐之男神 木花咲耶姫の父神
亀の子古墳頂上に鎮座。
亀甲山と称していたので亀の子塚と呼ばれる。
「苧麻=苧積(おう)み・麻=積麻=つみおに」ついて。
万葉集1-23 麻積王(おみのおおきみ)が伊勢国に流される歌がある。
麻積王のことは誰だかわからないと言う解説。
私の訳では麻積王は蘇我馬子でした。
中臣鎌足と中大兄皇子に『乙巳の変』で根絶やしにされた蘇我一族。
蘇我氏は『麻積王(おみのおおきみ)』で天皇と同じ位かそれ以上の存在でした。
中臣の臣(おみ)は蘇我氏の麻積(おみ)を無断で使用したと推測されます。
中臣の中は中将で王様のことを言います。
中臣は王様王様と繰り返した名前です。
奈良のヤマト王朝は日本列島を統一していなかった。
天皇は亡くなった貴人の諡に過ぎません。
天皇は明治から頻繁に使うようになった呼び名です。
以前は御所様、宮様と呼ばれていました。
ヤマトから派遣された国司の記録が山ほど出てきます。
しかし、それは後世に辻褄を合わせる為に捏造された文書でしょう。
後世の藤原氏の繁栄からすれば身分ロンダリングし高貴な血筋にしたのでしょう。
陰の実力者は藤原一族(秦氏)ですからね。
現代でもそうです。
歴史が勝者に都合の良いように作り替えられているのは公然の事実です。
今日耳者=きひじは=吉備路は=君のきた道
キヒ=姫=姫路
目串毛勿見=もっかもふっけ=もうかのふっつけ=もうかからの行き止まり
真岡から西側の行き止まり
事毛・咎莫=じけ・けば=地下(地元)・毳(みかも)=ミカモ山=地元三毳山から
筑波山麓には織物を積む湊がある。
まずは麻、苧麻、棉の生地から積む。
真岡、筑波側は棉、木綿。
ミカモ山、唐沢山は真綿、絹織物。
綿(真綿=絹)は輝かに多彩に編み込んである。
御所は筑波山麓の武駒(五所駒瀧神社)桜川市真壁町。
ここに牛王ハルとハハキ姫がおいでになった。
みかも山から真岡の間の地域を吉備路と言う。
または姫路と言う。
この歌は嬥謌の歌ではありませでした。
下半身スキャンダルに見せかけて歴史改竄をするのは藤原氏(秦氏)の得意技です。
道鏡や倭迹迹日百襲姫も同じです。
それが現代まで続いています。
東国が織物(絹、綿、麻、苧麻)の一大生産地であり輸出地であったことを物語っています。
7世紀、特にみかも山、真岡、筑波周辺だったこと。
牛王ハルとハハキ姫(龍蛇姫)の子孫の倭族だったこと。
そこには麻積王(おみのおおきみ)と呼ばれた王様が蘇我氏だったと詠っています。
茨城、千葉にはソガと名のつく神社がたくさんあります。
乙巳の変の真実に近寄ってきたようです。
次回はもう少し掘り下げてみたいと思います。
それでは。
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はじめての本です。よろしくお願いします。





