万葉集 1−40
持統天皇が伊勢國に幸し時に京に留まれる人麿の作った歌。
すると、この歌は人麿の想像の産物らしいですね。
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鳴呼見乃浦尒 船乗爲良武 女+感嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香
あみの浦に 船乗りすらむ をとめらが たまものすそに しほ満らむか
【大意】
今ごろあみの浦で船乗りをして遊ぶ少女たちの美しい裳のすそに満ちてくる海の潮がふれていることだろう。
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【宮古訳】
鳴呼見乃浦尒=あこげんうら=阿漕ヶ浦(茨城県那珂郡東海村)
現在の阿漕ヶ浦は沼になっています。
ここが海だったころの名残りの名前です。
海水面が30m上昇すると海になります。
海水面30mは鎌倉時代末期か室町時代初期と考えているので、この歌が詠まれたのはその時代かもしれません。
江戸時代初期の海水面は10mです。
これは間違いありません。
船乗爲良武=せんじょういらむ=綿を乗せた船が進む
女+感嬬等之=かんじゅとうの=舵取りの
珠裳乃須十二=綿星=織女星=琴座のヴガ
四寶三都良武香=しおみとらむか=潮を見なくては
阿漕ヶ浦に綿を乗せた船が進む。
舵取りは潮の流れと星(ベガ)を見て目的地に向かう。
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この歌に三つの疑問があります。
①の疑問は鳴呼見乃浦を「あみの浦」と訳したことです。
「あみの浦」は見を児の誤りとして「アゴ」と推測しつつもそのままになっています。
だから英虞の浦と訳している歌も当然あります。
なのでこの歌の舞台は志麻国の旧郡名の英虞方面か、同郡答志島・鳥羽方面と見る説。
しかし、『阿漕ヶ浦』は茨城県の東海村の他に三重県津市東部一帯の海岸も『阿漕ヶ浦』でした。
(に供える魚をとる漁場として、殺生禁断の地であった。)
その殺生禁止の場で魚を取った人物、阿漕平治の物語。
(1798年)に成立した浄瑠璃『勢州阿漕浦』でほぼスタイルが完成したストーリー「阿漕な奴よのう」などと悪者を意味する言葉が生まれた。
【阿漕=しつこく金品を貪る】
“安濃津(あのつ)”と呼ばれる良港があり、交易の一大拠点となっていた。また阿漕ヶ浦「安濃」の“濃”を“こき”と読ませたのが語源という説。
「濃」を「こき』と読ませるのには無理を感じます。
確かに濃は訓読みでは濃い(こい)と読みます。
しかし「安濃津」は「安の津」で「の」は助詞のはずです。
助詞でしかない「の」を「濃」と書き「こき」と読ませるとはかなりの念の入れようです。
浄瑠璃と言いよっぽど阿漕ヶ浦=安濃津を隠す為に四苦八苦したような印象を受けます。
1−40の歌には阿漕については当然ながら全く書いてありません。
安濃津と阿漕ヶ浦の共通点は「安と阿=あ」です。
「あ」とは何を意味しているのでしょうか?
考えられるのはAnn=あなのですが・・・今のところ直感だけで確たる証拠がないので材料集めからです。
思いつくのは簡単ですがそれだけでは想像の域を出ません。
直感の根拠も必ずあるはずです。
②の疑問。
鳴呼=あ
と訳していることです。
「ああ」です。
「あ」と訳すのなら万葉仮名も「阿」とかわかりやすく書くべきです。
「見」を「児」の誤りとするなら「鳴呼」も誤りとしても良いのでは思います。
③の疑問
女+感嬬=おとめ
女偏に感=女+感=国字としてつくったがその後使用された形跡がないようです。
乙女と書けば良かったのでは?
「舵取り」を、隠す為に作った国字としか思えません。
万葉集の万葉仮名には謎の法則でも存在しているのか同音異語がたくさん使われています。
の=乃=野=之とか。
現代でも使われている行幸と言う言葉。
基本、天皇しか使いません。
行幸=ゆくゆく
2回繰り返しているだけです。
人麿は悲劇の歌人、人麿の辞世の歌、人麿の謎
こんな言葉がネットでは踊っています。
なぜなのか、は読み下し文だけでは謎は解けません。
それでは。
はじめての本です。よろしくお願いします。