在野の神社古代史研究家の百嶋由一郎先生の資料を元に神様の名前の分析と神社探検していました。
(genbu .netさんよりお借りしました)
しかし先生作成の系図は仁徳天皇で終わりなのです。
ですからその続きを作成しなければならなくなりました。
ある程度の予測は以前からあったので、そのエビデンス探しをすることにしたのです。
そこで閃いたのが「万葉集」でした。
先生は傀儡舞、幸若舞、歌舞伎、浄瑠璃、 万葉集に真実がチラチラと書いてあるようなことを言っていたのです。
百嶋資料には傀儡舞と幸若舞について資料があったのですが、かなり難解なので「万葉集」から始めることにしました。
「万葉集」は雅な恋愛の歌集として名を馳せています。
ほんとうにそうなのでしょうか?
私は以前から疑いをもっていました。
とにかく自己流で訳してみようと思ったのです。
訳し始めてみると案の定ムリクリ恋愛の歌にしていることがわかってきました。
それと「枕詞」 の存在が意味をわからなくしたり特定の地名に誘導していることに気づきました。
万葉集の中でも指折りの難解な歌を訳してからシンクロが起こり始めたのです。
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 我が背子がい立せりけむ厳橿が本
訳
莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 我が愛しい背の君がお立ちになっていただろう。あの神聖な木の下
三諸山見つつゆけ我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
宮古訳
莫囂円隣之 大相七兄爪謁気
牧入りの 大穴津湯気(しぶき)
吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
我が子が 真っ直ぐに立つ 梅の木の本
この歌の場所が群馬県渋川市四万温泉の周辺だと思い調査旅行に向かいました。
四万川の入り口は北牧という地区でした。
やはり「牧」地名なのです。
そこには子持山があり子持神社と若子持神社がありました。
両方の神社に参拝し運良く神主さんにも会え祭礼の内容を聞くことができました。
祭礼時には鹿島神宮を向いて挨拶をするそうです。
子持神社と鹿島神宮には深い繋がりがあると確信しました。
子持神社主祭神は『木花開耶姫命』。
しかし神主さんは地元では『子持御前』と呼ばれ『木花開耶姫』は明治からの御祭神と仰っていました。
配祀
迩迩藝命
古事記では木花開耶姫の夫
邇邇芸の邇は女性を表す漢字、なぜか男神になっている。
猿田彦
江戸時代に祀られた百済系の新しい神
モデルはドラヴィダ人。
蛭子命
恵比寿のモデル、しかし夷(エビス)は東日本に縄文時代からいる王族の蔑称、記紀神話より古い。
天細女命
アマノウズメは木花開耶姫の別名。
古事記では天岩戸の前で踊るストリッパーにされている。
大山祇神
山神=海神=大山祇神=女神
沢山の神徳の為に造られた便利な神
大己貴命
大国主の別名
手力雄命
天岩戸を開けるもう一人の力持ちの主役。
スサノオの別名。
天岩戸神話はギルガメッシュ叙事詩の「イシュタルの冥界下り」が元になっている。
(そのうち解説します)
須佐之男命
またスサノオが祀られている。
本山奥宮
倭健命
日本武尊
武蔵、上野毛下野毛、常陸を中心とした東国王家の名前。
奥宮は崖崩れの為通行禁止でした。
子持御前だから子持山なのか?
子持山だから子持御前なのか?
問題はそこなのです。
子持神社には子持山を詠んだと思われる万葉集の歌がありました。
思われると言うのは、子持山が他にもあるからなんです。
歌を訳せば新事実が出てくるかもしれないので訳してみます。
(万葉集巻十四には東歌として東国各地の歌が集められている。これらの歌がどのようにして集められ万葉集に収められるに至ったかそのいきさつは明らかでない)
兒毛知夜麻 和可加敞流弖能 毛美都麻弖
宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布
子持山若鶏冠木(こもちやまわがかえるで)の黄葉(もみ)つまで寝(ね)もと吾(わ)は思(も)ふ汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ
意味
子持山の若いかえでが黄葉するまで、共に寝ようと私は思う。お前はどう思う。
かなり訳に無理がある感じです。
なんとなく恋の歌かな〜?
それとも死んだ誰かに添い寝する歌なのか?
意味が通じませんね。
宮古訳
兒毛知夜麻 和可加敞流弖能 毛美都麻弖
宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布
○兒毛知夜麻
子持山
○和可加敞流弖能
わが帰りでの
○毛美都麻弖
小櫃まで
小櫃=貴人の棺=墳墓
○宿毛等和波毛布
すくもとはもう
すくも=海の入り口や泥炭湿地帯
○汝波安杼可毛布
那波あじきはもう
汝波=那波=波打ち際
安杼可=アジキ=アズミ=磯=海
↓
安中(安杼可)の語源の可能性がある。
意味
子持山の帰りに墓参してきた。
海までもうすぐ、渚までもうすぐ。
「海までもう、渚までもう」と歌っていても
現在の渋川市は高地で海があるような状況ではありません。
しかし地球的規模の地殻変動が起きて隆起した場所なのかもしれません。
海などのぞめない場所に海地名が残っている地区は沢山あります。
若子持神社の近くに古墳があります。
現在の渋川市の地形では考えられません。
しかし縄文の海進より頻繁に海の情景は変わっていたのだと思います。
その証拠を探して調査しているのです。
この歌は一つの証拠かもしれません。
問題はこの歌がいつの時代に誰に詠まれたのかです。
それがわかりません。
仮に620年から760年の間に海進したとしても渋川が海になると日本列島はほとんどが水浸しになってしまいます。
おそらく海進と隆起沈降が日本の形を変えたのではないかと推測しています。
万葉集は雄略天皇(418〜479)の歌から始まります。
万葉集は誰によって編集されたのかわかりません。
最も最新の作家年月は759年1月1日大伴家持です。
家持(やかもち)の読み方
家の読み方=いえ、や、か
家に対してやとかを二つフリガナをあてたのでしょう。
家持=やもち
家持=かもち=こもち
かもち=こもちに転化した可能性があります。
=かもじ=髢(カツラ)=葛(クズ、カズラ)
=蠍=卍(万字)=万=伴
葛城氏と大伴氏は同じ一族です。
しかし歴史上まるで違う一族のように扱い戦い合わせています。
蘇我氏と物部氏も同族です。
ここも潰し合わせています。
大伴家持は大伴氏だという意味しかない名前です。
子持神社の子持御前は大伴家持かもしれません。
大伴家持はただの歌人ではなく性別を変えても名を残さなければならないほどの重要人物だったのかもしれません。
大伴家持の父→大伴旅人。
(旅人と似たような地名が福島県いわき市田人、茨城県ひたちなか市田彦にあります)
大伴旅人の異母妹→大伴坂上郎女は額田王以後最大の女性歌人です。
(大伴坂上郎女は大伴氏サカ族の娘としかわかりません)
大伴ファミリーには万葉集の秘密を解く鍵がありそうです。
もう1人の家(いえ)が付く名前は徳川家康です。
実は家康は群馬出身だと言われています。
こちらも少しずつ調査していきます。
では、このへんで。