万葉集冒頭の歌は大泊瀬稚武天皇の詠んだ長歌からです。
この歌はとても難解な歌で訳の意味がわからないのです。

雑歌(相聞挽歌以外の歌を命名、主に儀礼の歌。記紀には記されず、本来なかった疑いが大きい)
妻問歌とされていますが...通説の訳ではそういうことになっています。

万葉集
泊瀬朝倉宮御宇天皇代(はっせあさくらのみやにあめのしたしらしめしすめらみことのよ)
[大泊瀬稚武天皇]

万葉集 1-1

籠(こ)もよ み籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳に(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 名告(なの)らさね

そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

籠毛與  美籠母乳  布久思毛與  美夫君志持  此岳尓 菜採須兒   家吉閑名  告沙根

 虚見津  山跡乃國者  押奈戸手  吾許曽居 師吉名倍手  吾己曽座  我許曽者  告目  家呼毛名雄母


籠よ、 美しい籠を持ち、 箆(へら)よ。 美しい箆を手に、 この岡に菜を摘む娘よ。 あなたはどこの家の娘か 名は何という。
そらみつ大和の国はすべて私が従えているのだ。 すべて私が支配しているのだ。私こそあかそう。家柄も我が名も。

前半部、菜摘の牧歌的イメージから後半部は急に強引な男の本音が出ている歌に訳されています。
だから妻問歌と言われているのでしょうか?

それでは私が訳してみます。
この歌は、茨城、栃木、群馬の方言で歌う綿摘み歌です。

籠毛與  美籠母乳→籠もよ 大きな籠持って

布久思毛與  美夫君志持→ふく(おもけ=ろもて)よ  大きなふくろ持って

此岳尓 菜採須兒→この岳(やま)で 綿摘む若い衆(し)男

家吉閑名  告沙根→かくすな なくすな


籠もよ 大きな籠持って ふくろよ  大きなふくろ持って この岳(やま)で 綿摘む若い衆(し) かくすな なくすな
(前半部=綿を籠に摘みそれを袋にいれる、その際に高価なものだからかくしたりなくしたりするなと注意している)


 虚見津  山跡乃國者→君津(虚見津)と水戸(山跡=三戸)の国は

押奈戸手→女戸手(女戸部=女王)女王国だ  

吾許曽居→我こそ許

 師吉名倍手→しきな戸部(識名宮、錦戸畔)

吾己曽座→われこそ星(蠍座)

我許曽者→ われこそは

告目→爪=梅=女王

家呼毛名雄母→やっこい(柔らかい)綿とまゆ(繭)も




君津(金海)と水戸は姉妹の女王国である。

君津は千葉県の君津。

水戸は水戸部地名の茨城県の岩瀬、栃木県の真岡にあります。

君津(金海)と水戸は姉妹の女王国である。
君津は許氏(北インド、サータバーハナ王家アーンドラ朝)から沖縄(識名宮)経由で吾妻の国に来た。
水戸は大伴氏(葛城氏=万=蠍=枡=星)アルメニア王国(アルタクシアス朝)から常陸の国に来た。
星座観察をするカルディア人、梅の木を聖樹とする一族だ。
綿と絹をそれぞれ担当している。

綿摘み歌から始まって君津と水戸の説明をしています。
二つの姉妹国それぞれの女王様がまるで誰かにあてて手紙を書いているような内容です。

多分この内容は綿織物交易の親書だったのだと想像できます。

親書は綿織物のお墨付きだったのでしょう。
この親書を受け取った相手は国外の取り引き相手です。

雄略天皇と呼ばれている貴人は女王だったのです。

綿摘み歌と親書を万葉集の巻頭に持ってきているのでかなり重要な内容なのです。

万葉集とは本当に歌集だったのでしょうか?

額田王の歌を訳すと、まるで行動記録だったように感じてしまいます。

万葉集の歌の謎をとけばわかることです。