新羅は唐の柵封国でした。
柵封国は主人である皇帝に朝貢しなければなりませんでした。

定期的に貢ぎ物を持ってご挨拶に行くのです。

新羅の王族は唐と血縁関係にありました。

新羅が唐に内密に独立を果たしたとしても誰も知らない事です。

知っていたのは、百済王族の密偵だけだったのです。

新羅に敗北した百済王族のままでは難波の新羅国には近づけませんでした。

百済王族敬福は、密かに渤海人になり新羅国に入っていきました。

大仏造営の為の金を売りに行く為です。
渤海国も唐の朝貢国でしたから新羅に恩を売っておきたかったからです。

もちろん百済王族敬福と知っての事でした。

新羅は巫女王がいました。
それが、記紀にある第46代孝謙天皇、48代称徳天皇です。

孝謙天皇は道鏡との恋愛事件で有名です。

孝謙天皇の不名誉な死亡説。
弓削道鏡に夢中になり失政した。

女性天皇をここまで貶めたのはなぜなのでしょうか?

道鏡は敬福だったのかもしれません。
新羅の巫女王と百済の王族にどのような接点があったのか実際はわかりません。

道鏡は晩年栃木県の下野薬師寺に流された事になっています。
しかし、生まれ故郷に帰って来たのではないかとも思われます。

薬師寺の近くに孝謙天皇の神社があります。

茨城にも道鏡と孝謙天皇を祀る神社があります。

第49代光仁天皇
(持統天皇の末弟 志貴皇子の子)
"現天皇は志貴皇子の子孫と言われています。"
ここから天智天皇系に系統が変わります。

第50代桓武天皇
桓武天皇の名前の由来は恒雄から来ています。

「恒檀古記」は新羅のルーツが書いてあります。

ザックリといえば
新羅の先祖はインドから来た王族。
インドラ神≒帝釈天の子孫だと書いてあるのです。

この話は間違いではないのですが、全部正しいわけでもないのです。

神の子が恒雄で表しています。
その子孫なので桓武天皇と言うわけでなのです。

桓武天皇  (延暦寺保存)

唐と新羅は縁戚関係があるのですから、わざわざ恒雄の子孫と言わなくてもいいのです。

孝謙天皇を貶め殺害し百済が新羅を乗っ取りました。

百済王は名乗れませんから新羅の子孫で通す為に系図を偽造しました。

桓武天皇からは百済王族の血筋それが、天智天皇の血筋です。

天武天皇が新羅の血筋です、そうするとわかりますよね。

天智天皇と天智天皇は兄弟などではないのです。

対外的には百済とは名乗れませんでした。

茨城県石岡の国府に百済王族の面影があります。

"弓削屋敷"と言う地名が残っています。
"ドッキョ様"と言う信仰も残っていました。
(ドッキョ様は弓削道鏡の事でした。)

石岡には百済王(くだらのこにしき)の子孫
税所氏(さいしょ)一族がいます。
('税金を扱った人達の事だそうです?)

奈良時代≒新羅王朝

平安時代≒百済王朝

新羅の仮面を被った百済王朝の中国朝貢はそれからずっと続いて行くのでした。

日本は中国から「姫氏」の国と呼ばれていました。

新羅が「姫氏」だったからです。

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(知恵袋からお知恵を拝借しています)
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一つは「日本大蔵経」という仏教関係史料です。
ここには、日本の延暦寺の僧が唐の天台山の僧に仏教教義上の疑問について質問し、それに答えた唐僧の書簡が載っています(書簡が書かれたのは840年)。
質問を受けた唐僧は、回答許可を求めるため、天台山を統括する台州長官に手紙を送っているのですが、その文面には「日本は二十年一来の朝貢を約した国」と書かれており、だから回答を与えても良い、との許可を得ています。
つまり、日本は唐に冊封され二十年に一度朝貢することが義務付けられた国、という事になります。
*八世紀以降、遣唐使の派遣の間隔がおよそ二十年前後になっている事、唐皇帝に対する献上品の品目や数量が733年頃までに制度化されている事等がわかっており、上記仏教史料の裏付けとなります。

もう一つは『壬生家文書』に記された宝亀十年(779)来日の唐使節への対応です。
『続日本紀』によれば、宝亀十年四月に来朝した唐使孫興進は、光仁天皇に唐朝の書や信物(贈物)を奉り、朝廷や大臣達から宴の接待を受け、五月末には帰国したとあります。
『続紀』を読んでいる限り、何事もなく読み過ごしてしまう記事なのですが、『壬生家文書』によれば『続紀』とは全く違う状況であったことがわかります。

それによると、今回、唐使をどう迎えるのかについて公卿等の議論があり、 
①日本が唐王朝の「藩国」として使節を迎えるべきという意見(石上宅嗣)、 
②唐使といえども「藩客」として迎えるべしとする意見(“余”とされており、この人物が誰かは様々推測されている)に分かれた。
結局、石上宅嗣の意見が正論とされ、大唐開元礼巻一二九「皇帝遣使詣蕃宣労」儀を参考に、日本が「藩国之儀」により「天皇が御座を降りて皇帝の勅書を受けた」とされています。“余” と記された人物は「…是大いに不忠不孝の言なり。時の人、皆此の言に理ありと服す。然るに遂に御座より降りる、嗚呼(ああ)痛ましきかな…」と嘆いたと記されています。

日本は朝鮮半島の国々よりも、中国王朝の冊封体制下に入ることに抵抗感があったということは、上記『壬生家文書』に登場する “余” という人物の言動を見ても明らかだと思います。

"余"アクリ   この名前は百済王家の姓です。

779年

百済王が新羅王朝の仮面を被っているのがバレやしないかと思って心配して嘆いたのではないでしょうか?

李氏朝鮮時代、清は李氏朝鮮を国として認めませんでした。

それは、李氏朝鮮が高句麗の皇帝を殺して国を乗っ取ったからです。

下克上は、下品と言う位だったのです。


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