西暦178年倭国大乱(九州、朝鮮半島)の直接的な原因は地球的な規模の天変地異です。
特にモンゴル高原に住んでいた騎馬民族匈奴系鮮卑国の略奪範囲が南下してきました。
ですから倭国だけでなく漢も大変な事になっており倭国(姫氏)を助ける余裕などあるわけないのでした。
「烏垣鮮卑列伝(うがんせんぴれつでん)」
西暦178年の冬ごろに至り族衆の増加に伴い食糧難をきたした鮮卑族は旧来の牧畜一辺倒の欠点に気付き、その打開策として自分達の領域の東側に存在する「倭人」が、漁網を用い巧みに漁をすると聞き及び、東方界域の「倭国」攻略に乗り出した。
結果、一千戸ほどにのぼる聚落の倭人を拉致し、自らの鮮卑族領内にある「烏候秦水(老哈川らおはがわ)」の辺りに居住させ河川の漁獲資源確保の労役に従事させ、食糧難打開策の一翼を担わせた。
おそらく、族衆の増加ではなく寒冷化の影響による大幅な食料難に陥り、食料確保地域である漢民族も飢饉に喘いでいたのでしょう。
それで倭国の漁民に目をつけ拉致し魚を獲らせたのです。
鮮卑の東側境界の倭人とは、どう考えても地続きと言うことです。
海の向こうの列島まで鮮卑がくるはずありません。
九州.倭国こそ人口増加による住宅問題や食糧難が深刻になりました。
それを解決しなければならないのは大王である姫氏なのです。
平常時のお飾り純血種にそんな力はとうになく、混乱を沈めて秩序を取り戻したのは
親衛隊の白族、昔氏、瀛氏、越智族でした。
スサノオと大国主は複雑な気持ちだったと思います。
スサノオは、天皇家を立てて自分の息子を逆族 として追放しなければなりませんでした。
大国主は、自分達一族の方が長く日本にいるのに天皇家を立てる為に狗奴国の乱で天皇家から取り戻した土地を放棄したのです。
それと言うのも天皇家の後ろには漢がついていたからなのです。
しかしその頼みの綱も今や風前の灯火です。
九州は過密状態になり日の本に移り住む事を考えなくてはなりませんでした。
天皇家に決めてもらわなくてはいけないのです。
ヒミコはこの時66才です。
神武と懿德は相変わらずヒミコのお茶係でした。
ある計画が動き始めました。
九州は飽和状態ですから日の本に行く準備をしなければならなかったのです。
ヒミコが没してから禅譲と言う形を取る事が一番の解決策でした。
倭国大乱より20数年ヒミコ90才?で亡くなりその前に神武と懿德は亡くなっていました。
九州から大和への移動も最終段階に入っていました。
倭国は日の本と言う連合国の一員になったのです。
対外的には室町時代時代まで倭国と呼ばれていました。
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