1965~1975年の音楽シーン | なのはな22のふたり言

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本・テレビ・映画の感想が多くなると思います。たまにフィギユアスケート。
ミステリーや時代劇、ビジネスドラマが好きです。

今年はまだ半分しか経っていないのに、事件のニュースが次から次へと出てきて目まぐるしい。

ジャニーズ事務所・市川猿之助さん・札幌ススキノ殺人事件の異様さ・ビッグモーター問題・木原官房副長官夫人の前夫の死にまつわる疑惑等々。米国の潜水艇タイタンの圧壊事故も衝撃的でした。

ジャニーズ問題はまだ終わっていないし、猿之助さんの事件も不透明なまま。

今、一番ホットな話題は木原夫人への疑惑と捜査への木原氏の圧力です。厳正であるべき事件捜査が、政治家の横槍で歪曲されたとしたら大問題。真相が明らかにされる事を願います。

 

 

 

それはそれとして。

 

夏の蝉しぐれというものは不思議と、子ども時代の思い出を引き寄せるようです。

 

最近YouTubeで昭和40年代の音楽をいろいろ聴いていますが、歌手の全盛期の歌声が聴けると嬉しくなりますね。

ソロ歌手の人は50歳過ぎてもまだ聴けるレベルを保っている人が何人かいますが、バンドは厳しい。

昔、ベンチャーズのⅭⅮを買ったんですが、中年期の収録だったようで、「パイプライン」も「ダイヤモンドヘッド」もまるでグルーヴ感(ノリの良いリズム感というような)がなかったんです。エレキバンドの演奏には若さと勢いが必須だと感じました。

ⅭⅮを買って「しまった!」という経験をすると、タブレットで何でも好きな曲が聴けるって凄く有難い時代です。

 

私が11、12,3歳の頃はGS(グループサウンズ)が一世を風靡していた時代。

タイガース、ブルーコメッツ、ワイルドワンズ、スパイダース、テンプターズ、オックス、ジャガーズ等々たくさんのグループがTVを賑わせていたけれど、その中ではタイガースとブルーコメッツが印象的でした。

リードボーカルが傑出していて、タイガースは沢田研二さん、ブルコメは井上忠夫さん。ジュリーこと沢田さんはGS中1番の美貌の持ち主で、当時の人気はすさまじいものでした。

ただ、後から聴いてみると、彼は歌声そのものが他のGSの人より群を抜いているんですね。華がある。

 

井上忠夫さんも声に華がありました。他のGSが長髪が多いのに、ブルコメは髪型も服装もきちんとしていて異色のグループだったので、GSに拒否感を持つ大人世代にも受け入れられていた空気がありました。

 

が、GSが席巻していた期間て、割と短くて3年ぐらいだったと思います。

沢田さんは当然ながらソロシンガーとして成功しました。個人的には、彼の奇抜な恰好や歌の傾向は好みではなかったけれど、沢田研二という人が歌謡界のトップランナーとして10年余り走り続けた事は確かな事実です。

 

そして井上忠夫さんは大輔と改名し作曲家として活躍しました。「ボヘミアン」や「2億4千万の瞳」が有名です。

ただ、井上さんの人生を思うと哀しく、胸が痛みます。

たしか、彼が28、奥さんが20歳の時の結婚だった記憶ですが、心臓神経症(今で言うパニック障害のよう)の奥さんと彼女のお母さんとの3人暮らしで・・。

家事をしていた義母の死後は彼がいろいろ担当していたそうで、やがて眼を悪くした事も一因で、自ら最期を迎えました。

昔、コラムニストの小林信彦さんが、たまたまラーメン屋で一人で食べている井上さんを見かけ挨拶した時の思い出を書いた記事を読んだ事があります。その姿さえ「端正な人」と。

・・・

 

 

話がちょっと脱線してすみません。

 

 

高校生になるとシンガーソングライターがどさどさ登場した時代で、これを書き始めると長くなりすぎるので、今日はパスです。

 

なので、少し毛色の違う話を。

 

1971年に「2丁目3番地」というTVドラマがあり、翌年に「3丁目4番地」が作られました。

出演はどちらも浅丘ルリ子さんと石坂浩二さん。

そして「3丁目4番地」の主題歌がビリー・バンバンの歌った「さよならをするために」だったのです。

作詞が石坂浩二さんで、作曲は坂田晃一さん。

この歌をYouTubeで聴いていると、高校生の頃が蘇ってきて、なんだか切ない気持ちになります。

武田鉄矢さんの歌のタイトルみたいだけど、「思えば遠くへ来たもんだ」というのが実感として胸に迫ってくるような・・。

 

 

 

おつきあい頂き、ありがとうございました。