西白河郡
今日は、オレの記憶が残っている間に、昨日のネタとはまったく真逆の
固い話を、と言っても、オレが喋ると固い話も、スケベっぽくなるんで、
それが、このブログの欠点なんだが
で、オレの生まれた鈴木家と言うんは、実は第二次大戦前は。福島県でも
3番目の農林大地主だったんだ、と言っても今は亡き父は次男坊で後妻に
入った父の母、、つまりオレのおばあさんは父を産んだんだが、父には
祖父の先妻との間に長男がいた、その父の兄であるオレの<伯父さん>に
ついて今日は語りたい、、で、このブログでオヤジいやオジサンと言うと
フィリピン沈没オヤジのように聞こえるが、オレの伯父さんは、まったく
そんな、オレのようなクズではない、、
で、オレが実際に、生前の伯父さんに会ったのは数度の記憶しかない、、
なぜなら伯父は、一か月に一度くらい本家のある西白河郡大信村<当時>
から弟である父を訪ねて、新鮮な野菜をスーパーカブに積んで持ってきて
くれたんだ、オレの記憶は、伯父の持ってきてくれたキューリやトマトの
味は近所の八百屋のモノより数段美味かったということだけだ なぜなら
当時のオレは小学2年生、伯父とは50歳以上の年の差が、つまり完全な
ガキいや子供だった、優しかった物静かな老人だった、その伯父が死んだ
、と母に聞かされたのは、、いつも通り郡山のオレの家に野菜を運んで
大信村の自宅に戻る途中、矢吹町の国道4号線交差点で、スーパーカブが
車に跳ねられて65才の老人、伯父は死んだんだ、昭和40年の事だった
という概要を述べたが、今日のオレが言いたいことは、このような、
戦後はまったく田舎に篭って静かな老人生活をしていた伯父の姿では
ない、彼は本当は大金持ちなんだ<鈴木家は、所有した土地の80%が
田畑でなく山林であった為、戦後のマッカーサー農地改革を逃れられた
そのおかげで、やがてオレはバブル時代に、、父の2憶の遺産を貰って
バンコクへ逃避できたんだ、、、、で、やっと今日の本番である伯父の
オレの生まれる以前の第二次大戦中の姿、彼は昭和初期そして日本が
負けるまで、いったいどんな仕事をしていたのか?、、何度も言うが
伯父は福島で三番目の大地主の長男だ、カネに困るわけではないので
今のオレのよ~な自堕落な生活は可能だった、しかし伯父はオレとは
まったく真逆の人間性を持っていた、彼は自ら志願して日本の陸軍
士官学校へ行って、昭和10年ごろは中国戦線で日本軍少佐として
立派に従軍したんだ、、オレはその事を、父から話では聞いていたが
実際にそれをリアルに体感したのは少年時代、夏休みに預けられた
大信村の本家の土蔵で見つけた、引き出しにしまわれていた、古い
一枚の白黒写真を見た時の衝撃、そこには伯父の若い頃の、精悍な
日本軍制服を着たその口元に立派なカイザル髭を、蓄えた伯父の姿
土手に座った姿の周囲は、おそらく中国の戦地で撮られたものだ、
伯父の腰元には、長い日本刀が抱えられていた、あの昭和40年に
オレの見た好々爺の後の伯父とはまったく別人、軍人モードに入った
まるでミッドウエーに出撃した士官のような若さと精悍さに溢れた
伯父の姿がそこにいた
こんな話をすると、きっと片倉は感動するであろう、、<ナナさんの
伯父さんが陸軍の将校として中国戦線で戦ったなんて、>と、しかし
同時に彼は、<そんな立派な伯父さんのDNAを引き継いでいながら、
自分がナナさんと出会ったスワイパーの彼とは、何なのだ、?>と
彼は 自身もまたスワイパーで打ち込んだ自らの事を忘れるのだ
# マジメな話を、ブチ壊すな
ナナ