スズキの唐揚げ
今日は、フツ~の人間は 絶対取り上げない<魚屋とオレの関係性>という
哲学について語っかんな
で一昨日このブログで描いた、オレのオキニの巨乳と一緒の魚の絵、日本名
ではシイラという魚なんだが、この 2,5kgのデカい魚を買った店が、我家
から南に1kmのアバカン川を見下ろす土手の上に建つファテイマ教会の、
裏手にある この教会の立つ場所がすばらしい、なぜなら川の土手には
自分たちでは家の持てないバラックに住む貧困人民、、スクオーターと
言うんだ、その貧民街を見下ろすように睥睨する所に拠立する教会、これが
フィリピンだ、その脇の地元民だけが買い物に来る小さな市場の片隅で、畳
一畳くらいのべニア板の台の上に大小様々の、しかし飛び切り新鮮な魚だけ
を並べた魚屋がまだ20歳そこそこの青年が一人でやっている、、そこで
オレは庶民には普段絶対に手に入らない、いつもはホテルや高級レストラン
しかも外国人向けのムニエルなんかに調理されたシイラは一切れ400ペソ
もする、それを青年の屋台では2,5kgのシイラが たった600ペソで
買えたんだ、、、諸君、、これがフィリピンの現地人価格と外国人価格の
違いというものなんだ、で、オレのガールフレンドたちは今まで見た事も
食ったこともない高級魚を食った感想だが<テラピアと同じくおいしいわ>
であった、まあ知らないんだから仕方がない、無知な人間はさておいて
今日のオレが語りたいネタ、いやテーマとは、その青年が始めた新鮮な魚が
揃った店のすぐ傍10mくらい左隣に、今まで1年くらい通った別の、魚の
店があるって事なんだ
これを聞いた諸君は、きっと訝ることだろう、、<それが何だっていうの?
別のスーパーで、もっと安くていい魚があったら、そこに客が行くのは当然
でしょ?>だ、、、ところがオレは、今まで通った店の、すぐ脇に新しい
店が出来て、そっちの魚の方が気に入ったから、すぐに以前の店をやめて
新しい魚屋に行く自分と言うのが恥しい気がするのだ、、なぜなら今まで
1年間以上、オレがコロナから逃れてやっとフィリピンに入国できてから
ずっと通ってきた、今じゃオレの顔を覚えていて、毎回サービスしてくれる
気のいいオバサンがやっている店を離れてゆく自分が悲しいのだ<オレって
こんなに冷たい奴だったのか、>と自分を責めるもう一人の自分がいるんだ
ちなみに、このケースにおける<サービスの良い>とは現地人価格でオレに
売ってくれる、、外国人料金を要求しないってことなんだ、、今の日本が
<日本人価格>と<外国人価格>を挿入いや導入しようと言う動きは、、
まさにこのオレが今居るフィリピンに日本がなったという事なんよ
と言うわけで、オレは今、、今まで長く通った市場の魚屋の、おばさんを
フッて新しい青年のやる魚屋台へ、心変わりする自分を責めているんだが
それが不思議なんだが、同じことがホテルやレストランなどで起きても、
たとえばオレは今、長くバンコク滞在中に通ったマレーシアホテル近く
から、片倉がバンコクに来た際宿泊するホランポーン近くのスリクロン
ホテル、さらにチャオプラヤ川畔の美味い海鮮レストランへ歩いていける
場所に移したんだが、この自宅の傍の魚屋のような心の痛さは感じない
んだ、、レストランもそうだ、、長く通った店があっても、そこより安く
美味い店がオープンすると、オレだけじゃなく客は皆、さっさと新しい
店へ移動してしまう、、、、、これが資本主義の姿なんだ
# オンナもそうだ、、新しくベッドテクニックが
イイのが見つかると、古い彼女は、、$%^、、
もっとも新しいチン〇が見つかるとパイレーオは
女も同じ、
ナナ