ロッサナポテスタ

 

 

 

  オレの故郷、、福島県郡山市には、、<ローマの太陽>と言う、老舗の

  洋食店があるんだが、、老舗洋食と言っても、銀座なんかにある気取った

  店ではなく、いたって庶民的な、1品1000円前後で、本格的な洋食を

  食わせるんだ、、、

 

  で、オレがこの店と最初に出会ったのは、昭和47年頃だった、もう

  40年以上も昔の事だ、まだ10代だったオレが、郡山商業高校近くの

  坂道に開店したその<ローマの太陽>では、若きマスターが小さな店、

  カウンターしかなかった店をたった一人で切り盛りしていた、しかし

  当時から、店のメニューの中心にデカく<特製、井坂煮>が、掲げて

  あった、今に続く全国どこへ行っても、ここでしか食えないマスターの

  オリジナルの味だ、今じゃこの郡山じゃ<ローマの太陽>を知らない

  人間はいないが、、当時はまだ、今のように40年後もこんなに多くの

  郡山市民に愛される店になっているとは、若きマスターも予想できな

  かったであろう、オレはこの<ローマの太陽>をイタリア料理だとは

  思わないが、完全に和食風にリファインされた、まさにイタリア人に

  食わせてみたい、、、蛇足だが、よくSNSに出て来る<サイゼリアを

  イタリア人に食わせたら絶賛した、>という書き込みをオレは信じない

  1品3ドルのピザ<イタリアはそんなモノ存在しない>、という前提

  ならば、とイタリア人が言ったその前提を意図的に切り取っている

 

 

  で、ローマの太陽が長すぎてしまったが、、今日のオレのテーマは、、

  サイゼリアやローマの太陽の味をイタリア人がどう思うか?なんて話

  ではない、今日のテーマはローマの太陽のマスターのように自分の

  味をガンコに守って40年も、、同じ道を人間は追求できるのか?

  もちろんそれができれば誰もが尊敬するが、、実際99%の人間は

  <初志貫徹>とはいかないんだ、、ほとんどの人間は、途中中折れ

  いや挫折するんだ、いくら努力しても客というものは浮気で新しい

  店に簡単にパイレーオするんだ、また本人がちょっと売れたからと

  いって天狗になって手を抜いて、、、、

 

 

  でオレなんだが、このローマの太陽とは、同じ郡山市出身でありながら

  まったく真逆の人生だった、だってあれほど良かった、、ジュライや

  スワイパーの女たちをフッて、オレは南米のオンナに旅立ったんだ、

  いやオレの旅、、人生とは最初から南米の女とヤる、、いや征服する

  ためにあったんだ、それほど1970年代における、南米のオンナが

  オレを誘う吸引力は強かった、、しかし、ジュライやスワイパーで

  遊んでいたってオレが学びたかったスペイン語、残念だが南米の女は

  英語が苦手なんだ それをバンコクやマニラで遊んでいたら学べない

  んだ、だからオレは、いきなり南米に行って、殺されると痛いんで、

  カオサンでナンパした日本の女子大生のC子を連れて、、スペインと

  ポルトガルで2か月の夏休みを暮らして、南米に備えたんだ、当時

  <1990年>スペイン、ポルトガルは、まだケバい女はいなかった

  <現在は別、スペインには欧州中から娼婦が集合>、あの時はC子が

  毎晩打ち込ませてくれたんで、美味しい南欧のメシと夜は日本の

  オンナの味で、オレは楽しかったんだ、申し訳ないがあの時毎日

  食ったポルトガルの<PLATO DE DIA→今日の定食>にはローマの

  太陽も敵わないんだ

 

 

 

  その時に覚えたスペインポルトガル語が役立ったのが1993年に始まった

  本物のリオのカーニバル、、そしてまだ当時はジュライの先輩も知らない、

  行った事がなかったキューバだった、オレはまだ誰もスケベが行かなかった

  キューバで貧しいメシを食いながら、ガタルカナルのような消耗戦を戦った

  んだ、、なにしろクバーナと言うんは、文字通り一晩7発を要求するんだ

  その打ち込みにハマった日本人の女は、ハバナに行くと必ず黒人と同棲を

  始めるんだ、、オレは人生の打ち込み総量の半分を、このキューバで打ち

  尽くしたんだ、、、、まさにガタルカナルだ

 

 

 

 

                   # オレの時代に較べっと、今の日本人

                         若者は植物だ

 

 

 

                             ナナ