イサーンの女
そりゃ昔、ジュライ時代のバンコクは、今よりひどい渋滞に悩まされたんよ
だって市内には高速道路やBTSがなかった、じゃあ あの時代が現在の機能化
されたバンコクよりつまらなかったのか?というとそれがまったく逆トンでも
ないんだ、なぜならあの頃のバンコクには<オレが求めたアジア>というんが
存在したからだ
で、ここが今日のミソいやテーマのポイントなんだが、オレはいったいタイに
ジュライホテルに何を求めて当時旅立ったのか?ということなんだ もちろん
それは 今までこのブログを見続けてくれたショーンさんやTBBさんならば
分かっているが<オンナ>つまり日本で30才になって腹が出てきたら急に
郡山の女に相手にされなくなって<ヤラせてくれないのなら、、他のヤラせて
くれるオンナのいる国へ向かう、>という完全な負け犬根性でオレはタイへ
向かったんだ、なぜ自分をシェイブアップして、またオンナが’ヤラせる体に
自分を努力しようとしないのか、、だからオレは<負け犬>なんだ
と言うのが、諸君が理解するオレなんだが、、本当は当時のオレにはもう一つ
郡山が飽きた理由が存在した、それが<街がつまらなくなってきた>と思った
ことなんだ、まさに今のタイのように街の中心部、駅前周辺が衰退していって
人々は郊外に作られたショッピングセンターへ車で出かけて、そこで食事や
ショッピングを楽しむ、というスタイルに郡山が変わってきたんだ、、そんな
多くの郡山市民が<便利になって良かったね、車も停められるし、ドライブも
楽しめて、>と思った それが市中心部、特に駅前に存在した、、うすい、
丸光、西武 丸井、ダイエーのデパート,、jazz喫茶、コンパバー<郡山女子
大生がいくらでもナンパできた>、名曲喫茶、マカロニグラタンが旨かった
レストラン明石、えびやレコード店、などのオレの青春が衰退してゆく郡山
駅前というんを見ている自分 そこに居ることで自分が今後も、消えてゆく
郡山の1960年代の文化と言うのに自分も一緒に付き合わされるのがイヤ
になったんだ、なぜなら当時のオレは30才、、まだ今のように人生をあきら
めるのは早い、早すぎる だってまだ30なんだ、、まだあと40年は打ち込
めるんだ、、だからオレはジュライへ向かったんだ、何という旅をする目的、
いや動機と言うんが片倉とは違っているのか、、キンテツとは一緒だが
というワケで日本を捨てたオレが33年前に、ジュライで見た風景、当時の
タイと言うものは、まさに自分がガキだった60年代の日本そのものだった
じつはオレは子供だったから知らなかったが、60~70年代初期までは
郡山駅前と言うんは、じつは相当エロ地帯だったんだ、磐梯熱海温泉まで
いけばいくらでも一夜の相手をしてくれる妖艶な芸者衆が、東京からの客
地元民よりカネ持ってくる客を待っていた、、それが1987年オレが
行ったバンコクじゃ<東京の客>が<外国人>に代わっただけでまったく
昔の日本の風景、、貧しくて女たちが体を売らざるを得ないというより、
もっと手っ取り早く 3Kをヤラされずとも大金が稼げる方法をする女が
バンコク市内に溢れていたんだ、、1発80バーツ~
それが今じゃバンコクはもちろんタイのどこへ行っても、かつてのオレが
見た郡山みたく 街の中心部は寂れて郊外へ皆が車で向かう時代なんだ
こんな昔の脂っこい、いや活気にあふれた街のセントロが存在した時代を
愛するオレに、、今のタイはもう抜け殻なんだ、、昨日、木畜と行った
ホランポーン駅も、今は記念館なんだ、そこから運河沿い北に1kmの
タラートボーベー、、今まで30年間、、オレにここでしか売ってない
頑丈な、20回洗ってもヨレヨレにならない丈夫な短パンとtシャツを
70バーツで売ってくれたボーベー市場が、、昨日見たら、、あれほど
人々が溢れていた運河沿いの屋台市場が、、全部撤去されて、、閑散と
していた、、よ~するにタイ政府は、いや若い世代のタイ人も経済成長
した今のタイには、屋台も娼婦も青空市場もいらないんだ、、、
こんな国になった今のタイはもはやオレには抜け殻でしかない、こんな
タイに来てスクムビット辺りに住んで<タイの物価も、もう東京と変わり
ませんわね、オホホ、>、なんて言っている駐在員の主婦は、オレと同じ
日本人ではないんだ、、オレのキライな日本人なんだ
3 だったらさっさとフィリピンへ帰れ
まだ安いオンナが待っている
ナナ