タガログ語で、、

 

 

 

 

  オレが昔、アジア放浪を始めた、1980年代後半においては、タガログ語→

  フィリピン語の価値と言うんは低かった、その理由は、当時はタイのバンコクが

  オンナの黄金時代で、、わざわざ治安の悪かったマニラへ行かなくとも、タイは

  バカ安→1発100バーツで 可愛い子と遊べた、、まあ今の世代に言っても

  キョトン→別世界、異次元過ぎて分らんだろう、でもオレはその時代のタイを

  満喫できたんだ、、しかし当時のタイじゃ、英語が通じなかった、そこで、、

  ジュライ連中は、必死でタイ語をヤッタんだ、、

 

  で、それほど女天国だったタイの黄金時代は、、90年代中頃、いわゆる置屋

  文化と言うんが衰退し、オレのタイの時代は終わった、、代わりに勃起、いや

  勃興したのがスワイパーを代表としたプノンペンの時代なんだ、、、で この

  時代からオレの活躍が始まったんだ、と言うのはタイ語では後れをとったオレ

  だったが、舞台いや河岸を変えた、ここプノンペンになると、、まずベトナム

  からやって来た出稼ぎ娼婦の言葉を理解できる者は、いなかった、だから

  <ベトナム語突破作戦>というノートを作ってノールック<ベト語で努力>を

  やったんだ、、、その結果は素晴らしかった、英語のまったく話せなかった

  メチャ可愛いオキニたちに、オレは言葉が分かるというその事だけで、、

  サービス5倍、、→10倍だったかんな、、

 

  で、当時のオレはまだ40前で、若く、スケベ好奇心も満点で、いくら

  周囲がスワイパーにハマっていても、、オレの探求心は満足できんかった

  なにしろオレの最大の人生目標<南米オンナの攻略>が残っていたかんな

  というわけでオレはプノンペンに沈没する片倉やキンテツを残して、一人、

  ハバナへ旅立ったんだ、まあその後のオレが、どれほど中南米のオンナを

  相手に孤軍奮闘したのか?は、今日のブログだけでは語りつくせない、、

  それほど南米のオンナの味は、濃かったんだ、、、、

 

  で、最後に残ったピーナなんだが、、オレはこのピーナとの恋の打ち込み

  というものを人生の最期、老後に残しておいた作戦は正しかった と

  いうのも、知れば知るほどピーナというんは、中高年と相性が良いんだ

  現地の言葉で<マバエ>と言うんだが、タガログ語の会話ができるように

  なるとピーナたちは、とっても優しいのよ、ただしカネがないとダメだが

 

  で、やっと最後に、なぜ今、、フィリピン語→タガログ語の価値が上がった

  とオレが思うかなんだが、、それにはフィリピン文化と歴史というものの

  存在がある、、それはオレの、ここフィリピンの打ち込みを支えてきた

  ゴーゴーバー文明と言うものがコロナによって衰退し、、もはや今の、

  かつてのメッカ、上のイラストの女の子がいたアンヘルスのゴーゴーバーに

  彼女の存在は消えた、、つまり客が減って連れだし料が上がって、もう昔を

  知るオレのような客は離れていった、、、そこでオレが目にしたものは

  もう白人相手に営業をやっていたゴーゴーバーと言う職場ではなく、オレは

  ごくフツーの、遊び好きの女子学生や仕事のないブラブラしている女の子が

  自分の付き合うことになった、、、そこで知ったのは素人、彼女たちの

  ような 遊び好きのプレイガールと付き合う際は英語よりタガログ語の

  ほうが、何倍も、こちらのやってもらいたいことを相手が理解してくれる

  と言う発見だ、、つまりコロナによって、外国人相手に英語商売をして

  いたオンナたちがガタ減りして、代わりに遊び好きの素人とつきあい

  出した途端、、彼女たちとの日常会話はタガログになった、、と言う話

 

  オレはもうフィリピンで遊びはじめて35年になるが、その相手の、、

  ほとんどは英語を使ってゴーゴーバーで見つけた女だった、それが急に

  バーの経験のないオンナの子と付き合いだすと、、ほんと他の言語より

  遅れて始めた、このタガログ語と言うものが絶大な威力を発揮したんだ

  楽しいぞ、、現地でタガログ語で、恋と情事を語るのは、、、

 

 

 

 

              # この言語が、オレの7か国学習の最後に

                   なるだろう 

 

 

 

 

 

                           ナナ