2時間ドラマのシーン
オレは昨今、亡くなった有名人の事を思う、石原慎太郎、島田陽子、田村正和、
渡瀬恒彦、大林宣彦、、、そして6年前に物故した大橋巨泉、、これらの人々は
オレの今までの人生に、少なからず影響を与えて来た人間だ、、とくに最後の
大橋巨泉は、オレがジュライ、キャピトル時代に、、<これからどうやって
後半の人生を生きて行けばいいのか?、周囲の連中のように毎日安いオンナと
ジュライで沈没するだけでいいのか?>とオレは思ったんだ、なぜなら当時の
オレは30才、、まだタイの娼婦だけで、それで世界の女が征服できたとは、
思わなかった、、まだ南米もスワイパー、いやベトナム女のネチッコイ、、
テクニックも知らなかったからな、ピーナは、なんとなくだが老人になって
からでもいいような気がしていた、だからオレが今のようにピーナ一筋に
打ち込むようになった<これが本来の日本語の<打ち込む>の正しい使い方だ
のは、じつはこの10年くらいなんだ、、<もう30年も前からフィリピンに
自宅を建設して、、>などと自慢しているが、実際は建ってから20年近くは
オレの家は、一年の半分以上はオレのいない空き家、メイドが留守をするだけの
まあ別荘のようなものだった、、だってキューバやスワイパーや雲南省で、
自由に海外が行き来できた時代、、オレは世界中を回ってオンナに打ち込む
ことに人生を賭けて来たんだ、、今でもそのことに悔いはない、おかげで、
オンナに習った言葉、、7か国語が、まだ忘れちちゃいないかんな、、
で、オレが30才の頃、、大橋巨泉が教えてくれたことで、今でも忘れられ
ないことは<人生で全部は取れない、>と言う言葉だ、あれほどプレイボーイ
だった人気司会者の彼が、当時は珍しい、日本人でありながら外人とフツーに
英語で会話ができた、、、もちろん当時の宮澤喜一なんかも英語は得意だった
らしいが、巨泉のように口語体で、ネイテイブとフツーに話せたか、?
オレはあの当時、外人と普通に会話ができた人間は少なかったので覚えて
いるが、作家の景山民夫、、DJの小林克也、、CNNキャスターの山口美江が
よく覚えている、、まあ帰国子女の山口美江と 小林克也は英語でDJできる事が
ウリの、いわば商売なので、あくまで司会者やJAZZ評論家が本業の大橋巨泉とは
分けて考えなくては不公平だ、、オレがカッコイイ、と思うのは英語を商売に
使っている仕事の人間ではなく、本業は作家、政治家、画家などの別の仕事で
ありながら海外経験の中で、外国人と付き合ううちに自然に英語が身についた
という大橋巨泉や景山民夫のほうがカッコイイ、と思った
で、オレらジュライ、キャピトル組と言うと、まあ皆さん、タイ語の勉強だけは
熱心であられたようで、タイ語に関しては、オレは彼らの劣等生だった、しかし
そのことはオレにとっては、未来の想定内だったのよ、、なぜならすぐに90年代
からタイの没落が始まって、一般の経済発展がスタートすると共に、ジュライや
パッポンストリートの、あれほど快楽に溢れていたバンコクの猥雑さは,女子供
そして韓国人、そして大量の中国人観光客の出現によって、オレの時代は消えた
で、オレよりタイ語の上手だったジュライの先輩たちが、その後、パタヤに
長期滞在後、スワイパーの噂を聞いてプノンペンにやってきたときは得意の
タイ語はまったく無用の長物となり、、逆にタイ語じゃ劣等生だったオレは
彼等より一足先にベトナム語をオンナから習っていたので、、立場がまったく
逆転したんだ、、ジュライ時代はイジメられたかんな
というわけで、大橋巨泉の言った<人生ですべては取れない> これって
全部を欲張るのはやめて、タイの女に集中しなさい、、という意味だと、
オレは巨泉師匠の言う事を聞かず、、南米、ベトナム、中国、そして今、
老後を沈没するフィリピン、、ピーナに捧げる人生と、、オレは欲張り
だった、そしてタイ料理だけでなく世界中の料理を食いまくったオレは
リッチだったぞ、、カネはひろゆきに負けるが、、、、
# こ~いうのが、ちっとも羨ましく思われない
シュールな時代
ナナ
🅱
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